手術したらタイムリープするハメになった話

 子供のころから病気がちではあったものの、まだ成人して間もない自分にとっての「余命宣告」はそれなりにパンチの利いた冗談だった。医師から両親を通じて伝えられたそれによれば、あと3ヶ月程度なのだという。本人に宣告するかどうか、という判断は親族に委ねられるものらしいのだが、流石は俺の親だ。もしかすると葛藤はあったのかもしれないが、スッキリきっぱりと教えてくれた。あなたもう3ヶ月しか持たないのよ、と。
 
 延命措置というよりは、終末医療のような形になった。3ヶ月後の死は想像すると恐ろしくなってしまいそうなので、自分の中での死の解像度が上がるまえに「処置」をしてもらうことになった。曰く、時間の感覚を極限まで鈍らせることで恐怖やストレスから開放されるというものだ。驚くほど倫理的ではない気がする。説明をしてくれたのは医者で、両親は、すべてお前の好きなようにしてくれ、してやれることは全部してやる、というような事を言った。俺はあっさり承諾して手術は3日後に決まり、なるべく何も考えないようにしてその日を待った。
 
 当日、起床後に朝食は抜きにして、手術を行うため離れの病棟へと向かった。術前、意識を失う前に最後に聴いたのは、折りたたみ式の寝台の足が鳴らすガチャガチャとした音だ。
 
 
 
 
 意識を取り戻すと自分はベッドに横たわり、そばには両親と、いつもの医師がいる。
 
「あなた、あと4年しか持たないのよ」
 
 
 急に何を言っているんだという気持ちをそのままに、ひとしきり説明を求めたことは想像に難くないと思うが、医師にしても、俺の様子を見て訝しげな顔をしたのちに、誰かに電話で連絡をとり、なにやら相談しているようだ。余命が3ヶ月だと言い放ったときですらそれほど極端に感情を見せなかった両親が、哀れみの表情でこちらを見つめている。
 
 その日の夜は悶々として過ごし、翌日になりようやく、つまり自分は、投薬やさまざまな処置により記憶が混乱しているのだな、というように認識出来るようになった。しかしそれにしても、余命のことは記憶違いだったとしても、宣告を受けた翌日にまた宣告を受けるのは妙な話だ。それについて両親に聞くと、
 
「あなたにそれを伝えたのは昨日が初めてよ」
 
 と悲しそうな表情で答える。なんのこっちゃと思い部屋を出て確認してみるが、休憩所のスペースにある新聞も、テレビも、自分がいま「宣告を受けた日の翌日」に存在することを示しているのであった。
 
 自分が時間を飛び越えて、なんども同じ日を繰り返しているのではないか?という馬鹿馬鹿しい妄想が現実味を帯びてきたのは、そのまた翌々日、退院日の診察でだった。かんたんな触診を行うためにベッドに横になったところで気を失い、次に意識を取り戻したときに見たのは部屋の天井と、医師と、そして両親の顔。
 
「あなた、あと5年だそうよ」
 
 短いけど……何がしたい? と続けざまに聞かれたが、それについては答えることは出来ない。そのかわり、今日は何曜日、何日ですか?と質問をするに留まった。今、この文章を読んでいる方なら、この気持ちはわかるだろう。医師はじっとこちらを見つめてから、日付と曜日を答えた。それは自分が初めて宣告を受けた日であり、おそらくなのだが、何度目かの「この日」だ。
 
 宣告される「年数」は、どうやら時間が遡るたびに伸びている。正直、はじめの3ヶ月という宣告からすれば5年はかなり上等に感じる。それにおそらく両親は、これから5年の間は好きなことをさせてくれるだろう。5年もあると考えれば、やりたいことはそれなりにある。しかしまた時間が遡ってしまえば台無しだ。宣告から退院までの同じ時間を、同じように繰り返すことになるかもしれない。
 
 しかしそんな心配は、すぐ払拭されることになった。曰く、余命5年と宣告されたとはいえ、今できる処置はほとんどないので、即日退院なのだそうだ。今後は定期検診のみになり、ゆくゆくは本人、つまり俺の意向で「最終的にどうするかどうするか」を決める。
 
 なんだか久しぶりな気がする日差しを浴びて、あと5年、さっそく始められることは始めてしまおう、と思った。親の運転する車で自宅へ戻り、少しリビングで休んだあとに自室へ戻ってノートとペンを取り出す。人生の終わりが決まっているのなら、スケジュールも決めやすいのか。なんてことを思いながら「これからやりたい事」を書き込んで、それぞれにかかるであろう「時間」も併記していく。5年、ピッタリとはいかないだろうから、4年半を目処として仕上げる。5年もの人生計画が、1時間かそこらで完成してしまった。それでもそこそこ、満足のいく仕上がりだ。
 
 それからちょっと休もう、と大きく伸びをしてベッドに横になったまま、俺は息を引き取った。
 
 
 両親は、それからすぐに部屋に入ってきて俺の手を握り、母親はその場に座ってゆっくり時間をかけてから泣いた。父親は俺の書いたノートを読んで、やっぱりこんなことをすべきではなかったかもしれない、と言う。
 
 
 俺の本来の寿命は、宣告段階で一週間ちょうど。それを知っていたのは医師と両親だけで、当人である俺は全く知らなかったわけだが、両親はなるべく苦しまないように逝かせたいと考えたらしい。医師が考えたシナリオによって俺は恐怖と無縁の逝去となったわけだが、本人達がよかれと思ってやったことが、他でもない、まだ生きている本人達には深い爪痕を残している。こちらとしては、感謝しようにも伝える方法がないから、ただ眺めるしかないのだが。
 
 

10年ぶりにUltima Online(ウルティマ・オンライン)にログインした話

 UOウルティマ・オンライン)と呼ばれるMMORPGは、私のネットゲーム原体験である。恐らく3年くらいのプレイ期間ではあったのだが、このゲームが自分に与えた影響はあまりにも大きい。2020年現在から数えるとおよそ10年ほどログインしていなかったのだが、偶然見かけた情報サイトによれば、現在はEndless journeyと呼ばれる無料プレイ制度が導入されており、過去にプレイしていた人々も自由にログインが出来るようになっていると言う。当時のアカウントIDなんかをギリギリ思い出しながらセットアップし、今日ついに久しぶりのログインを行った。結論から言うと、古い個人サイトのリンク集を眺めている気持ちになったのだった。
 
 UOは中世ファンタジーの世界観をベースにつくられた仮想世界で、様々な地形を持つ広大なフィールドがほとんど地続きで繋がっている。プレイヤーは徒歩や馬を利用してそのフィールドを駆けまわり、戦ったり、ものをつくったりと、それなりに自由な暮らしを楽しめる。私がプレイを始めたころはPvPサーバーとPvEサーバーが分かたれた頃で、それ以前はスリや窃盗・殺人なども横行するハードな世界であったらしい。PvP/PvEサーバー間の行き来自体は、私がプレイしていたタイミングでも可能ではあった(PvPサーバーには採集資源等にボーナスがあったり、後述する「家」を建てる土地を得るためにそちらのサーバーを選ぶプレイヤーも存在した)。
 
 街やダンジョンなどの特定の場所をのぞいて、好きな場所へ自分の家を建築できるのがUOの特徴的なシステムだ。お察しの通り、フィールドは広大とはいえプレイヤー数も多かったため「空き地」を見つけるのすら一苦労であった。そのぶん、自分の家を持てたときはなかなかに嬉しい。私の場合はたしか、すこし凶暴なモンスターが湧く沼地の脇にみつけた土地に、はじめの家を建てたのだったと思う。ダンジョンからボロボロになって帰ってきたら、家の玄関にモンスターが居座っているなんてこともあった。
 
 さて、UOの世界にはRuneと呼ばれるアイテムがある。見た目は紋様の入った小石といった所だが、これにMarkという魔法をかけると、今いる場所(座標)を記録しておける。Runeは先述した通り広大なフィールドを持つUO世界において必須のアイテムで、昨今のゲームで言う「ファストトラベル」のような機能のかわりになる。記録済みのRuneにRecallという魔法をかけると、記録しておいた座標へと瞬間移動が出来るのだ。Mark(記録)はどんな場所でも出来るため、自宅の前だったり、よく通う場所であったり、はたまた危険なダンジョンの最奥にMarkして「死にルーン」として身内での遊びに使うこともあった。
 
 Runeは用途が多いため、複数を所持することが殆どだ。そのためそれらをファイリングするための「RuneBook」というアイテムがあった。つまり、自分でつくるアドレス帳みたいなものである。そこで、ようやく冒頭の話に戻る。
 
 久々のログインにも関わらず、キャラクターの装備や持ち物は当時のままで存在した(なんとUOの持ち物は、バッグ内のドット単位の位置まで記憶されている)。先述したRuneBookも複数所持しており、用途にわけて「街」であったり「家」「店」「ダンジョン」などがある。開いてみると、当時よく通っていた店は店名も、なんとなく覚えていたり、逆に「○○'s House」とあるのに、その○○が誰なのか思い出せないこともあった。古い日記をひらいたような気持ちである。
 
 しかし、それら殆どの建物は、もうどこにも存在していなかった。UOでは月額課金が途切れると、しばらくして家が「腐る」システムになっている。なのでプレイはしないけれど、家を保たせるためだけに課金し続けているプレイヤーも、当時はかなりの数がいた。それであっても10年という年月は重い。だいたい、私だって10年前に家を腐らせているのだ。
 
 かつて便利に使わせてもらっていた店や、友達の建てた家、仲間の集まっていた集会場などに飛んでみて、そこがなにもない更地になっていた気持ちをなんと表現して良いものやらと思う。それは、ふと思い出して大昔に通っていたホームページをリンク集から辿ろうとして、リンク切れになっていたときの気持ちに近い。404 Not Foundという文字のかわりに、真っ青な草原だったり、知らない人の家だったりがあるというだけだ。
 
 というようになんだか少しさびしい再訪となってしまったのだが、10分程度のプレイ時間中でひとりだけすれ違ったプレイヤーが存在した。まったく知らない人だけど、この世界を共有している存在が自分以外にあることが少しだけ嬉しかった。加えて、当時参加していたGuildのメンバーリストを見てみると、最近であれば1ヶ月前にログインした形跡のある人も居る。どうやら当時の仲間のうち何名かは、無料プレイが始まった際に少しだけログインしてみたようだ。
 
 今、あらためて当時の仲間と一緒に遊べなくても、それは一向に構わない。ただ、あの頃の記憶を持っている人が自分以外に居るんだ、と思えるだけで、当時の自分と今の自分が地続きになったような気がして、すこしだけ温かい気持ちになれる。
 
 再度この世界で本格的に遊ぶことは無いだろうけれど、それこそアルバムを開くように、たまに遊びに行くぶんには良いかもしれない。
 
 
 

妖精のいる村のクリスマス

1.妖精のいる村の冬
 
 11月も末になるとこの村はすっかり雪景色になってしまって、レンガ造りの家の壁面の緋色だけが目立った、コントラストのきつい世界になる。家と家のあいだは十分に離れているから、明け方からわんわんと泣き出した1ヶ月の娘がいまだに泣き止まなくても、家族以外の誰も苦情を述べに来るようなことは無かった。
 
 日が登りはじめてから少し経って、髭面の夫は薪を割りに出てきていた。家をつくるときからずっとある、切りかぶを残した台座に薪を置いてつぎつぎに割っていく。すこし余裕を持たせて残してあった切りかぶも、えぐれてしまうごとに平らにならしていくうち、随分とちびてきた。
 
「お父さんのクリスマスはそれかな」
 
「俺のは、もっと上等なベストだな」
 
 上の娘が聞いてきたので、夫は答えた。毎年クリスマスには妖精がやってきて、願いをひとつ叶えてくれることになっている。
 
「なんにせよ、ありがたいこったね」
 
 妖精はいつだって裏切らなかったし、この家で妖精の存在を信じていない者はいなかった。信じない理由はなかった。とにかく毎年、クリスマスの日にひとつ願いをかなえてくれるのだ。
 
「私のは、もう結婚式のドレスだから、きりかぶは自分でお願いしてね」
 
「ドレスはお母さんが縫うだろ」
 
「村のドレスなんて絶対嫌」
 
 上の娘は今年で14だが、夏の祭りで知り合った、隣の村の男と一緒になることになっていた。隣の村はここよりはいくらか裕福な村で、内陸よりで日当たりもよく、雪が少ない。
 
 夫は割った薪をまとめたのちに、端のほつれたベストをひと撫でして、つぎの仕事に取り掛かった。この海辺の村はほとんど自給であるから、いちにちにやるべきことは沢山ある。
 
 
 
2.妖精のいる村のクリスマス・イブ
 
 火をおこした食卓をかこんで家族が集まる。今年は魚料理ばかりになってしまったが、来年はすこし楽になるだろう。なにより上の娘はとなりの村へ嫁いでゆくし、娘の夫となる男のはからいで、村どうしで魚と肉の交易がはじまることになっていた。
 
 ふたつの村は、昔はまとめてひとつの大きな集落といったような関係であった。しかしあるとき何らかの諍いがあって、以降、祭りのような催しを除いたほとんどの交流がなくなった。娘の結婚は、それをとりもどすことになるのだ。
 
「ウサギを呼んでくるのね」
 
「そういうこと。たまに帰ってきたときは、パレードのひとつでもおねがいね」
 
「お願いした甲斐があったわ。すこし早いかもと思ったのだけれど」
 
 妻は今年の夏、妖精に娘の結婚を願った。するとクリスマスにぴったり挙式があわさるように、娘の結婚がトントン拍子にきまったのだった。
 
「うさぎだけじゃなくて、シカも連れてくるから」
 
 魚ばかりでうんざりしていた娘らしい口ぶりだが、たしかにそれなら来年のクリスマスはずっと豪華な食事になりそうだった。
 
 やがて下の娘が泣き出した。夫はそれをあやしに腰を上げ、同じく立ち上がろうとした妻に向けてかるく手をあげてそれを留める。下の娘をひょいと抱えあげた夫は、ぼそぼそと話しかける。
 
「うちの子はお前で最後だ。おまえは村にのこるか?」
 
 下の娘はなかなか泣き止まなかった。
 
 去年のクリスマス、夫はふたりめの子供を願った。妻はもちろんそれを歓迎していたし、上の娘にしても妹ができることはやぶさかではないだろうと思っていた。しかしいま思えば、なにやら煮え切らない表情をしていたように思う。やがて雪がとけ始めた頃には妻のおなかもみるみる大きくなって、ぴったり十月で下の娘がうまれた。
 
 うまれるまで妹についてどんな話をしても気のない返事をするばかりだった上の娘だが、いざうまれてしまえばかわいい、かわいいと大事にするようになった。それはまごころからの表情にも見えたが、それと同時に、急にじぶんの結婚についての話をすることが増えた。
 
 どちらの娘も、本人がいずれ出て行きたくなるのであれば、夫にそれを止めるつもりはない。もし出ていってしまっても、また夫婦ふたりの生活に戻るだけなのだ。それでなくたって村からは若い人間が減っているのだから、縛り付けておくのはかわいそうだと思う。
 
 
 
3.妖精のいた村のクリスマスの朝
 
 クリスマスの朝のこの村は一面の雪景色で、あたりはレンガ造りの家の壁面の緋色だけが目立った、コントラストのきつい世界だ。家と家のあいだはあまりに離れていて、食べ物の融通をするにも一苦労である。
 
 日が登りはじめてから少し経って、髭面の夫は薪を割りに出てきていた。家をつくるときからずっとある、切りかぶを残した台座に薪を置いてつぎつぎに割っていく。ちびた切り株はもはや薪を立たせるのも一苦労で、どうしたものかと考えたものだった。うまく台座を組んでやれば、なんとか出来そうではある。
 
「あなたのベスト、そろそろ縫うから今晩あずけてちょうだい」
 
「革があればもっと上等になるんだろうがな」
 
「この歳になって、まだそんなこと言うのね」
 
「くせだよ。なおりゃしない」
 
 動物の皮は、海辺のこの村ではほとんどとれない。15年前までは隣の村と融通していたのだが、今ではもう交流すらない。何を隠そう、村と村の関係をだめにしたのはこの夫であった。妻に言わせればそれは「共犯」ではあったのだが、夫は未だに革や肉の不足を自虐することがある。
 
「なおりゃしないの、さっ」
 
 パカンとキレイに割れた薪が転がって、一方の薪が、それを濡らさないよう敷いてある麻の敷布のうえに落ちる。もう一方の薪は、コロンと音をたてて切りかぶの上に残った。
 
 
 
 十数年前、隣の村には長の家を継ぐはずだった娘がいた。親の決めた結婚をきらった娘は、ある年の夏祭りで知り合った男と駆け落ちしてしまったのである。これは大きな騒ぎになった。
 
 狭い村のことであるから、すぐに足はついた。駆け落ち相手の住む村というのは、この海辺の村だった。そのため隣の村からここへ何度も使節が来たが、そのたび娘と男は居留守をつかって隠れ通した。いざ使節と顔をあわせてしまったときも「戻らない」と言って頑としてゆずらず、しまいには娘の両親が長という身分でありながらわざわざやってきて、泣いて頼み込んだことさえあった。
 
 そういったことを何度も繰り返していくうちに、痺れを切らせた先方は娘を諦めるかわりにと、村と村との交易を断ったのだった。それからの事は、大変だった。
 
 ひとくみの男女の色恋によって生活に支障をきたした海辺の村では本当に色々なことがあったのだが、村の人間も最後には、娘と男がここに住まうことを許してくれるようになった。
 
 これが、夫とその妻の結婚の顛末である。
 
 
 
「妖精にお願いしたら」
 
「なにを、お前は」
 
「なつかしいわね」
 
 妻がとうとつに古い伝承の話をしだしたものだから、夫は驚いて言葉に詰まった。そんな話を最後にしたのはもうずいぶん前の話だというのに、まるで最近もそれについて話していたかのように、自然な切り出しかたをした。妻はなんだかうっとりして、とても良い表情をしている。
 
「結局」
 
 夫は薪割りの手をとめ、体ごと妻のほうへ向きなおした。妻がこんなふうに短くことばを切って話すことは稀であるから、大事な話だろう。次のことばを待っていると、いつしか妻の目尻にはすこし涙がにじんでいた。
 
「結局、子供はできなかったけれど」
 
 妻はもともと子を宿しにくい体で、色々な方法をためしたものの結局はうまくいかなかった。そのうち大病を患い、命は助かったものの、そのときにいよいよ希望が潰えてしまった。あれからもう15年前になる。
 
「あのとき一緒になって妖精に願ってくれたことが、嬉しかったのよ」
 
「どうにもならなかった」
 
「それでもね」
 
 当時、藁にもすがる思いで試したもののうちのひとつに、妖精に願いをかけるというものがあった。曰く、村には妖精が住んでいるから、願えばそれを叶えてくれる。クリスマスの日は妖精のために、魚の料理を食べるのが良いとされた。
 
 その年のクリスマス、夫婦は用意できるだけの魚料理を作り、食べ、一緒に子供がほしいと願って眠ったのだった。しかし年が明け、雪が溶け、夏がやってきたけれど、何も起こりはしなかった。しょせんは迷信だったというわけだ。
 
 あれ以来、妖精に願い事をしたことは無い。妻にその頃のことを思い出させるのが嫌だったのだ。
 
 
「すみません、村の方でしょうか」
 
 気がつくと軒先に、あまり見かけない顔の男が立っている。ななめにかけた特徴的なフォルムの鞄は、ずいぶん昔に見たことのあるシルエットだった。あれは確か、隣の村の――
 
「こんな日にすみません。私は隣の村に住んでいるものでして」
 
 妻は夫の顔を見つめたのち、男に向きなおる。夫も妻の肩にかるく触れて、知っている顔か?という意味で視線をかわしたが、妻は首をよこに振った。
 
「この度は、わが村の長の命によって参りました」
 
 男は鞄から、なにやら動物の死がいと、角らしきものの断片を取り出して言った。
 
「読み上げます……“長らく断絶していた貴村との交易をふたたび望む”。こちらはそのしるしに、ウサギの肉とシカの角、です。なにぶん私一人でしたので、シカの肉は今後、おいおいにという事で。よろしくおねがいします」
 
 降って湧いた話に夫婦はおどろいたが、男がうそを言っているようには見えなかった。夫は少し考えてから言う。
 
「村で相談するが……みな、喜ぶと思う」
 
 世代がかわって、許されたのか。夫にはわからない。とにもかくにも、クリスマスの朝からこんな仕事をさせられたこの男を手厚く歓迎してやらねばならないだろう。まだ年若い男は頼りなさもあったが、村々をまたひとつに戻す、かすがいとなってくれるはずだ。
 
 
 
 ついきのうまで妖精のいた村のお話
 
 
 
END

アサシンクリード オリジンズが興味の窓を開いた

他の追随を許さないバーチャル歴史体験ゲーム。しかしプレイフィール自体は平凡
 
 2008年から続くアサシンクリードシリーズのメインシリーズ10作目。アサシン教団と呼ばれる組織に属する(または関連する)主人公を中心に、作品ごとに十字軍遠征からロシア革命に至るまでの「歴史の変わり目」を舞台にして来た作品群だ。今作ではそのアサシン教団のルーツとなる時代、プトレマイオス朝エジプトでの戦いを体験する事となる。
 

f:id:kaoru_san:20200617145153j:plain

 
 
古代エジプトを走り回れるという事
 
 紀元前のエジプトを舞台にした高品質な3Dアクションゲームというだけでも、歴史に興味のある人間が聞けば垂涎ものであるだろう。実際、最新のグラフィックで表現される古代エジプトは見事なものであり、当時の人々の生活や、まだ崩れていない神殿、建物のありさま、使っている道具等から察せられる文明レベルなど、今まで教科書や、テレビの再現VTR等で断片的にしか見られなかったものを実際に「目の当たりに出来る」というのは、これまでに無い体験だ(開発者の歴史解釈で、という条件付きではあるが)。
 

f:id:kaoru_san:20200617145230j:plain

かつてファロス島に存在したアレクサンドリアの大灯台。現在は砦になっている

 

f:id:kaoru_san:20200617145302j:plain

何気なく転がっている小物から、当時の文明レベルを推し量る事が出来る

f:id:kaoru_san:20200617145406j:plain

特に北岸の方面はギリシャの影響が強い様子が伺える
 
 
 どうやらそういった需要は発売元のUBI SOFTも理解しているようで、今作からは「ディスカバリーツアー」と呼ばれる、戦闘等のゲーム的要素を廃した所謂「観光モード」が無料アップデートにて配信された。普段ゲームに触れていない人でも楽しめるように、という采配だ。
 

f:id:kaoru_san:20200617145517j:plain

ツアーではガイドの案内を聞きながら、実際に古代エジプトを歩き回る事が出来る

f:id:kaoru_san:20200617145549j:plain

実際の史料とあわせて観ることで、ただでさえ精巧な再現の解像度が更に増したように感じられる
 
 また、発売当初に目玉のひとつとしてアピールされていた「フォトモード」は会心の出来で、キャラクターを中心とした一定の半径内で自由なカメラワークのスクリーンショットを撮る事が可能だ。被写界深度設定やその他数種類のフィルタを使用して、簡単なレタッチも出来る。steam版の実績解除率からするとフォトモードを楽しんで居るプレイヤーは思いのほか少ないようだが、このゲームの楽しさの2割くらいはフォトモードにあると筆者は感じている。
 

f:id:kaoru_san:20200617145634j:plain

フォトモード中は時間が停止するので、一部を除いてクエスト中でも撮影が出来る
 
 
レベル制アクションゲームへの転換
 
 さて、肝心なゲームシステムの方であるが、こちらは過去作から大きく変化があった。というのも、今作の開発方針はこれまでの純粋なアクションゲームから一転「レベル制」アクションゲームへと舵を切ったのだ。
 

f:id:kaoru_san:20200617145742j:plain

エストでレベルを上げ、得られたアビリティポイントを使って技能をアンロックしていく
 
 これまでのアサシンクリードシリーズは、敵の裏をかき、様々な道具を駆使し、次々と暗殺を決めてマップを制圧していくタイプのゲームシステムであった。しかし今作はレベル制を導入し、それによって2つのポジティブ/ネガティブな影響が現れた。まずは良い影響だが、これは時間さえかけられるのであれば、プレイの敷居がやや下がったという事だ。細かなクエストをクリアしていくことでレベルを上げ、その地域の適正レベルを上回る事さえ出来れば、極端な話あまりステルスせずともガチンコバトルで拠点を制圧出来てしまったりもする。反面、こちらは悪い影響だが、それはプレイのテンポが落ちてしまった事である。
 
 例として暗殺の仕様を挙げるが、適正レベルを大きく下回った状態でミッションに挑んだ場合、これまでのシリーズでは確殺となっていた背後からのステルスアタックが、敵のHPバーの数割程度しか減らない「ただの大ダメージ攻撃」となってしまったのだ。ダメージを与えた後は「発覚」し、正面からの殴り合いが始まる。今作において過去作のようなスムーズなプレイを求める場合、ミッションごとに適正なレベルまでキャラクターを育成する必要がある。
 

f:id:kaoru_san:20200617145800j:plain

レベルのかけ離れた敵にはドクロマークが表示され、勝機は無い

f:id:kaoru_san:20200617145816j:plain

逆にキャラクターを育てすぎた場合に緊張感を保つためのレベル調整オプションも存在する
 
 この仕様を好意的に解釈するとすれば、「プレイヤースキルに自信の無い人向けの救済措置」または「これまでのマップデザイン依存のゲーム性を打破したかった」といった所だろう。しかしレベル製の導入によって変化したものは目的達成までの回り道が増えたという部分が殆どで、プレイの多様性といった面においてはあまり効果が上がっているようには思えない。さらに言えば、ゲーム内の有料オプションサービスには「タイムセーバー」と称した各種スキップ機能が存在している。これはゲーム内通貨やアビリティポイント等をリアルマネーで購入出来る仕組みなのだが、皮肉なことにタイムセーバーの存在そのものによって「レベル制の導入が単なる足かせにしかなっていないのでは」という疑念を抱かせる結果となっている。
 

f:id:kaoru_san:20200617145901j:plain

ずらりと並ぶゲーム内課金メニュー。操作ミスか仕様かは不明だが、筆者の初回プレイ時はメニュー呼び出しボタンでこの画面が表示された
 
「稼ぎ」が必要なゲーム性
 
 新しく導入されたシステムには「武器・防具のカスタマイズ」といったものも存在する。これはシリーズ従来の「武器の購入によるキャラクター強化」からはまた一歩進んだシステムで、所謂ハックアンドスラッシュ要素であったり、素材の収集要素であったりを上手く融合させた仕組みだ。
 
 クエストの攻略や「宝の地図」等のアクティビティ、また敵拠点の宝箱から得られる報酬では、ランダムな追加効果を持つ装備(所謂マジックアイテム)がドロップする仕様となっている。また、キャラクターだけではなく武器それ自体にもレベルやそれに準じた攻撃力等の数値が設定されているため、エリアを経る度にレベルの高い装備がドロップし、収集の楽しみが次々と更新されてゆく仕組みになっている。
 
 

f:id:kaoru_san:20200617150026p:plain

特殊効果はランダムで付与されているが、強力な効果ほど出にくい印象だ
 
 
 また盾以外の防具は更新する必要がなく、それぞれの部位に狩りや収集で手に入れた「素材」を投入することで、ベースステータスを強化していくといったシステムになっている。強化する部位によって、それぞれライフポイントや基礎攻撃力の底上げが出来る、といったものだ。
 
 どこかで見たようなシステムではあるのだが、実際に遊んでみるとそれなりに上手くまとまっているように感じられた。例えば、強力な武器を拾うなどして今まで使っていた武器が不要になってしまった場合、それを「分解」して素材へと還元する事が出来る。分解して得られた素材は防具の強化に流用する事が可能で、不要な武器を拾ってしまっても全くの無駄にはならないといった配慮だ。
 
 また「分解」とは逆に、気に入った武器と長く付き合っていく為の仕組みも存在する。これは鍛冶師に大金を支払う事で、武器についた特殊効果はそのままに、攻撃力の数値だけを自分のレベル準拠まで引き上げてくれるといったものだ。基本的に武器に付く追加効果というものはドロップ時にランダムで付与される仕様のため、序盤で強力な武器を拾った場合はお金をコツコツ貯めて終盤まで強化を繰り返し使い回すといったプレイが可能になる。
 
 
 このように「今ドキ」な、プレイヤーの行動がが極力無駄にならないよう丁寧に作られたシステムはたしかに存在するのだが、惜しいことに細かなほころびがありプレイのテンポが損なわれている部分があった。具体的な話になってしまうが、防具の強化に必要な「革」集めだけが他の素材と比べて著しく労力がかかり、そのためだけに各地を走り回る必要があるのだ。
 
 

f:id:kaoru_san:20200617150104j:plain

特に不足するハードレザー収集のためにワニの住む島へ来た時の様子
 
 
 ドロップ面もハクスラの楽しさを完全に移植出来ているかといえばそうではない。例えば、強力な特殊効果を持つ高レアリティ武器というものは、基本的に重要なクエストや宝の地図等のアクティビティから発生するようになっている。そしてプレイヤーが散策中によく遭遇する「敵拠点」の内部に転がっている宝箱などからは、ほぼ「それなり」のものしか出ないのだ。そういった理由もあり、中盤以降の探索へのモチベーションはかなり損なわれてしまっていた。
 
 

f:id:kaoru_san:20200617150125j:plain

宝箱からドロップするのはおおむねRareもしくはEpic程度の装備だ
 
 
無難で凡庸なアクション
 
 これまでのアサシンクリードシリーズと同様に、建物や障害物をものともせず自由に動き回れるパルクールシステムは健在だ。入り組んだ地形であっても、マップに表示される目的地マーカーへ(建物を乗り越えたりしながら)一直線へ移動出来る快適さはやはり素晴らしく、オープンワールドゲームの抱える「移動のストレス」を大きく軽減しているという点では、今でこそ当たり前になってしまった要素とはいえ重要なポイントだ。
 
 前述の通りレベル制の導入による弊害はあるものの、アクション的な意味においてのステルス派生行動自体には気になる箇所はそれほどない。アビリティの開放如何によっては行動出来る幅もどんどん広がっていく仕組みで、目新しさこそ無いが、不足も無いといった所だ。
 

f:id:kaoru_san:20200617150141j:plain

もはやステルスゲーにはお馴染みとなった、複数人の同時暗殺も可能
 
 正面きっての戦闘は、初代アサシンクリードであったような「ご都合主義」では無くなった。敵が複数であった場合は同時に攻撃してくる事もあり、バランス的にはWitcher3:Wildhuntのそれに近い。アクションゲームとしては本作の方が幾分多彩に感じられたが、出の早い通常攻撃、出の遅い崩し攻撃を使い分けながらガードや回避を駆使して戦うといった様な、ベースはあくまでよく知られている形式のTPS戦闘だ。
 
 敵の攻撃を弾いて反撃する所謂「パリィ」や通常攻撃からの派生行動も、アビリティを開放すれば使えるようになる。油壷や火矢などの地形効果を使えば(多少のレベル差であれば)格上狩りをする事も可能だ。しかしそれらが必須かと言えばそうではなく、適正レベルであれば序盤から終盤までほとんどやる事を変えずにクリア出来てしまう位のバランスだ。
 
 「大きなストレスがない」という点ではかなり好感が持てる作りになっているのだが、目新しさは殆ど無いと言って良い。しかしこれはあえてチャレンジを廃し、無難なものに仕上げた様にも見えるのだ。筆者がなぜそう感じたかと言えば、それはこのゲームの「キモ」がアクション部分には無いと思うからだ。
 
 
広大な歴史世界への入り口
 
 このゲームの「キモ」 それについては筆者が実際に体験した事柄を話そうと思う。実際のプレイを経て、ゲーム内外を問わず大きく変化したものがあった。それは「歴史」そのものへの興味だ。
 

f:id:kaoru_san:20200617150202j:plain

 
 正直に告白しよう。プレイ開始から30分程度、筆者は全く食指が動かずに困り果てていた。またいつものように序盤だけ触っただけで、積みゲーと化しまうのではとすら思ったのだ。そこで自身のモチベーションコントロールの一貫として、Wikipediaや個人サイトを巡り、この時代のエジプトについて軽く調べてみる事にした。
 
 誠に恥ずかしながら筆者は古代エジプトはおろか世界四大文明についても殆ど理解していない程度に浅学であったが、うっすらとした記憶の中から「エジプトはナイルのたまもの」といったワードを引っ張り出し、ネットで調べおおまかな流れを掴み、ゲーム内に登場するキャラクターの生涯についてざっくりとした知識を得ていく(この際クレオパトラプトレマイオス13世を軸にすると調べやすい)。それにより、ゲーム内では何気なく提示されるだけのキーワードにもしっかりとした背景がある事に気づいたり、その時代特有の情勢に面白みを感じたりと、むしろゲームそっちのけで1週間ほど調べ物に耽ってしまうという事が起こった。
 

f:id:kaoru_san:20200617150218j:plain

ピラミッドのスケール感や保存状態についてはデフォルメされている部分が大きい。そんな知識もゲームを経て自ら学びに行ったものだ

f:id:kaoru_san:20200617150240j:plain

「三段櫂船」を用いての海戦シーン。見た目のインパクトが強烈で、思わずどんな物なのか調べてしまう
 

f:id:kaoru_san:20200617150306j:plain

死者の書」を老人へ届ける最序盤のクエスト。興味のある方は調べてみてほしい
 
 これはあくまで筆者の場合のエピソードだ。しかしそのくらい、このゲームには「学びそのものをぶつけられる懐の深さ」が存在する。もちろん紀元前の世界の再現ではあるので、資料が極端に少ない史跡やモニュメント等は再現が適当だったりはする様なのだが、しかし、そういった相違があるという点も含めて学ぶ事が出来た。加えて、クリア後も歴史への興味は失われておらず、今ではエジプトの歴史を軸に周辺の国々への関心も芽生えてきている。暇さえあれば、興味の赴くままに調べ物をしている有様だ。
 
 
「興味」というものには、細かなシステムの不備などは全て覆い隠してくれるくらいの力がある。しかし興味をくすぐるコンテンツ制作というものは、容易ではない。「歴史」を原典とした上で、なおかつこのクォリティと再現度で世界を蘇らせた『アサシンクリード』というゲームでしか成し得なかった偉業であると思う。
 
 残念ながらゲームプレイ自体は目新しさもなく平凡だ。しかし平凡であるがゆえに大きなストレスもなく、作り込まれた世界はプレイヤーの興味を刺激する。もし歴史というものにアレルギーが無いのであれば、時間を割いて触れてみる価値はあるだろう。
 
 
 
☆水準以上のグラフィックと細やかな時代考証で再現された古代エジプトを実際に体験出来る。しかし引き伸ばしとも取れる凡庸なゲームシステムからモチベーションを奪われずに最後まで楽しむには、歴史に対する興味・教養・学ぶ意欲が少しばかり必要。そのかわり、興味を引くトリガーはふんだんに用意されている。
 
 7.5点
 
+圧倒的な表現力で蘇った古代エジプト
+ストレスの無いアクション周り
+プロモーション画像レベルのフォトモード
 
-退屈な「稼ぎ」が必要なレベル制
-良くも悪くも普通な質のローカライズ
-時間を人質に取るゲーム内課金
 

言葉で気持ちの正体を捕まえる

 先日、友人と話していた時に「相談、したりされたりする?」という話題になった。
 
 ちなみに友人は「よく相談されるけど、自分がすることはない」で、私は「相談されることもほぼないし、することもない」であった。私の人望がないという話は、今回の本筋ではないので省くこととする。
 
 

相談をする理由 

 
 まず初めに断っておくと、ここで言う「相談」というのは情報収集や多角的な視点を得たい場合に行うそれではなく、例えば「恋愛相談」のような軽いものの話だ。友人も私も、以下のような点で共通した感覚を持っていた。すなわち「相談するといっても、何を聞けばいいのかわからない」ということだ。
 
 というのも我々は、恋愛相談に代表されるような「自分の心の整理をつけるだけ」というシチュエーションにおいて、他人に話を聞いてもらうよりももっと手っ取り早い解決法を持っているのだ。すなわち、自分の心を「言語化する」という行為である。
 
 

自分の気持ちを言葉にするという事

 
 言語化、などとややこしく書いてはいるものの、ようは「思ったことを片っ端から文字にしていく」というだけの、なんてことのない行為である。書き方は、口語でも箇条書きでも何でも良いのだが、とにかく自分の抱える問題点はなんなのか? それの解決に必要なものは何か? わからない部分はどこか? 伴い、今やれそうなことは何か? など、どんどん思うままに書き連ねていく。
 
 この行為の効果をもし疑う方が居る場合は、一度騙されたと思ってやってみることをお勧めする。もしかすると、面白いくらいに効果があがるかもしれない。コツとしては「正解を求めないこと」である。あえて正解を言うとすれば「自分の心のままに書くこと」が正解だ。
 
 

頭で考える事と言語化する事の違い

 
 さて、こういった事をやったことの無い方からすれば、そもそも、自分の頭のなかにあることなのだから、書き出した所で何の意味も無いだろう、と思われるかもしれない。しかしそれは、あまりに自分を買いかぶり過ぎということになる。
 
 というのも人間、頭の中にあるものは思ったより混沌としていて、整頓されておらずグシャグシャな状態にある。わかっている、と思っている事でも、本当はよくわかっていなかったり、著しくディテールが甘かったりするものだ。
 
 書き出して言葉にするという事は、そのグシャグシャした何かを「意味のある形に整える」という行為だ。自分がよくわかっていない部分を浮き彫りにしてくれるし、他にも、これから何をしなければいけないのか、そして時には、自分が何をしたいのかさえもわかるようになる。
 
 

ゼロ秒思考

 
 ちなみにこの「心の中を書き出す」という行為、実際にビジネスの場においても有用なツール・スキルとして認識されている。試しにAmazonや書店で「ゼロ秒思考」と名のつく書籍を探してみれば、すぐ見つかるだろう。
 
 ゼロ秒思考の手法というのは、非常に短い時間(書籍では確か1分)を設定して、その時間内に自分がその問題について思っている事、考えている事を書き出していくという繰り返しだ。書き出しの効果については上に記した通りだが、ゼロ秒思考の最終目標は、これを習慣化する事によって「言語化のプロセスそのものを体に叩き込み、頭の中だけでもスムーズに情報を整頓出来るスキルを得る」というものだ。
 
 少し冗長な説明だったが、つまり「言語化」というのは、スキルなのだ。やればやるほど上達する。書き出してアウトプットすることが出来る人間は、程度の差こそあれ、頭の中の整頓も得意なのである。
 
 

感情の正体を掴む

 
 さて、ビジネスの場においては主に「問題解決」のために書き出しを行う事が多いが、これとは別に「自分の気持ち」すらも整理する事が出来るというのが、この「言語化」のスゴイ所だ。
 
 方法は同じで良い。これまで「何が問題なのか」としていた所を「自分がこのような気持ちになるのは何故か」に置き換えれば良いだけだ。なんだかモヤモヤするな、と思ったら、ザーッと書き出してみるといい。
 
 例えば、友達との集まりにおいて、特定の人物が居ると何だか楽しめない場合があるとする。そこでまず「何故自分は、その子が居ると嫌な気分になるのか」という所から始めて、思い当たる物を全て書きだしていく。あの子のこういう所作が嫌。あの子が居ると、別な友達が私の事を構ってくれない。あの子の見た目が嫌、などなど。細かい事でも問題ない。思ったことなら、何でも良い。
 
 この際、自分に嘘をつく必要はない。なぜならそのノート、スマホ、もしくはPCは、自分だけしか見ないものだからだ。それに、自分に嘘をついてしまった段階で、この「書き出し」の効果は無くなってしまう。そもそも自分を知るための書き出しなのだから、嘘をついてしまっては、元も子もない。
 
 上手く書き出しが出来ると、自分の「嫌だな」という感情の正体を掴む事が出来る。自分が一体何に対して「嫌だな」と思っているのか、具体的に絞り込むことができるのだ。そして、それは思っていたより致命的な事であったり、逆に、思ったより大した事ではなかったりもする。
 
 いずれにせよ、書き出す前よりは自分の事をよく知っている状態になれるわけだ。自分の感情の正体がわかれば、これからどうすれば良いかの道筋も、はっきり見えてくる。
 
 

「恋愛相談」はキャッチボールで行う言語化

 
 さて、前提知識という事で長々と話してしまったのだが、ここで冒頭の「相談」の話に戻る。
 
 こと「自分の感情を整理する」という意味において行われる相談、すなわち恋愛相談のような軽めの相談が何故行われるのかという疑問について、これは友人と話していて思いついた仮説なのだが、つまり、こういった相談事というのは「他人を介して行う、自分の心の言語化」なのではないだろうか。
 
 もちろん相談には相手が存在するので、相手の意見や意識も一部は入ってくるだろう。しかしこの行為はどちらかといえば被相談者の語彙を利用して自らの気持ちを言語化しているというのが本体なのではと思っている。「話してるうちにまとまってきた(落ち着いてきた)」というシチュエーションはありがちだが、それもつまり、そういうことなのだと思う。
 
 それを踏まえると、もしかすると自らの気持ちを言語化するスキルを持たない人間ほど、他人に相談をするのではないだろうか。例えば私と友人のように、他に自己分析の手段を持っている人間にとって、他人への相談というのは「情報収集」以外にありえないのだ。
 
 

言語化というスキルを持たない辛さ

 
 基本的なアウトプットが出来ない、書き出しが出来ない人々というのは、思ったよりもかなり多いのではと感じている。
 
 そして、彼ら彼女らが抱えているストレスというものは、言語化スキルを持つ者のそれと比べて、想像を絶するほどに巨大なのではないだろうかとも思う。なにせ、自分の心が何故動いているかもわからず、そのせいでこれからどうしたら良いかもわからないのだ。それはあまりにも苦しい。
 
 なのでもし、周りにそういった気配のある人が居るのであれば、また、その人間の事を少しでも大切に思っているのであれば、なるべく押し付けがましくなく、定期的にガス抜きの場を用意してあげるというのが良いかもしれない。
 
 そしてその際、こちらがすべきなのはアドバイスではなく、彼または彼女の「心の言語化」を手伝ってあげる事だ。
 
 
 ということで、思ったよりしんどい思いをしている人が多いのではないか?と考えてぐだぐだと書き出してみました。
 
 

映画『ミスト』感想

Amazonのレビュー

 
 この映画を鑑賞し、思うところがあり感想を書き始めたあたりでふと気になって一旦筆を置き、Amazonビデオの作品レビューを上から2つほど見てきた。どれよりも大きく支持を得ているレビューと、評価数で言えば前者の5分の1程度のレビューの2つだ。
 
 曰く、何よりも評価されているレビューが言わんとしているのは「主人公デイヴィッドこそが死を招いたカルト教祖そのものだったのだ」というもの。そればかりか「カーモディはよく見ると何一つ手を下していない」とまである。
 
 このレビューを見た際、正直に言えば「カッときた」と言っても過言ではない。
 
 私がこの映画を終始デイヴィッド視点で見ていたのは事実で、カーモディの事を「心が弱い人間」と捉えていたのは認める。しかし、それにはしっかりとした理由があるし、今でも間違ってはいないと思う。
 
 

過程と結果の不合理

 
 人間は何をするにつけ、目的を持って行動する。そしてそれを達成するための手段をいくら考え抜こうとも、結果が伴うとは限らない。確度を限りなく上げたとしても、100%には絶対にならない。そういうものだ。
 
 特に劇中のシチュエーションのように先が見えない状況においてそれは顕著で、このような場合は仮定に仮定を重ねてリスク・リターンの計算をしながら動くしかないのだが、そのためにはまず『この先何が起こるか「わからない」』と、認識しなければいけない。そこを間違えると、何も始まらない。
 

Amazonレビューに生まれる本物の「信仰」

 
「仲間を死に追いやったカルト教祖は主人公デイヴィッドこそであった」
 
 こうして文字にしながら考えるほどに許してはいけない思想だと思うので許さないわけだが、おそらくレビューの筆者は厳しい環境において育ち、同様の社会経験を積んできたのだなと勝手な想像をしている。
 
 というのもそれが「結果史上主義」すぎるためで、不確定なものに相対するときの結果至上主義というのは、場合によっては全てがひっくり返る極めて軽率なものであるからだ。
 
「わからないもの」例えば霧に包まれてマーケットに閉じ込められた状況において次に何をすべきか、という論争は、サイコロの出目を占うのに等しい。サイコロの出目を予想するにあたっては、参加者は全て平等である。当たりもすれば、はずれもする。そして結果は誰にもわからない。
 
 このAmazonレビューが言っている事は、サイコロを振って「絶対にピンゾロが出ると言っていたカーモディを無視して、3-2の5が出るかもしれないと予測して出て行ったデイヴィッドこそ、まさしく死神だった」と言っているのに等しい。たまたまピンゾロが出てしまっただけなのに、である。
 
 このレビューに「役に立った」が1000件以上寄せられているわけだが、つまりこれこそが信仰なのだなと思い至った。たまたま結果を残せなかった人間を袋叩きにして、たまたま結果を出せた人間を全知全能とみなす行為。恐らくだが、こういった人々に共通しているのは「先のことはわからない」という認識が不足しているという事だろう。歪みと言ってもいい。
 
 

信じるものは思考停止する

 
 問題解決の際はまず「わからない」という事を認める事が必要、というのは何度も書いた。しかし「わからない」という事を認めて仮定に仮定を重ねて思考していく行為、というのは、非常にストレスのかかるものだ。人間は、誰しもそういったものからは逃避したくなるように出来ている。
 
 そこで甘言を差し伸べてくれるのは「神」であったり「ツキ」であったり「絶対的指導者」であったりする。簡単に言えば、それさえ信じていれば何も考える必要がないという存在だ。これは非常に脳へのストレスが少ない。ゼロかイチ、白か黒、善か悪、そんな感じで世の中を認識していれば、それはとても楽である。
 
 カーモディはそれを(意図的ではないにせよ)利用して求心したわけだ。極限まで追い詰められた状態において、この世の中の解像度はあまりに高すぎる。不確定なものというのは、すなわち恐怖であり、ストレスだ。ストレスからは逃避したい。だから「わかる」と言い切ってくれる人を欲してしまう。彼女の事さえ信じていれば、このストレスから逃れられる。そういう思考の流れだろう。
 
 

カーモディの問題点

 
 もちろん、信仰するもしないも個人の価値観であり、それは自由である。カーモディの問題点は信仰そのものではなく、それを他人にまで押し付けてきたという事にある。
 
「わからない」を否定して見えない事にするという行為は、各々の心の強さ、弱さがある以上は非難出来ない事だ。しかしその逃避を理由に他人を制限したりする事は許されない事だと思うので、絶対に許さない(あくまで個人の意見なのでこういう表現をしています)。特にデイヴィッドは「わからない」という事を認識し、思考し、自分の責任において行動ようとしていた人物だ。それの足を引っ張る行為が妥当だったとは、とても思えない。
 
 責任、という観点でもカーモディには大きな問題がある。
 
 それというのも、カーモディが行う発言はすべて「神の名において」であるのだ。何かあればそれは神の意思という事になり、いざという時に自分が責任を取る気は微塵もない。それどころか他人に全ての責任があると断言して、信徒に殺害するように仕向ける始末だ。カーモディとは対極的にデイヴィッドは、薬局から戻った際に一度は脱出計画を取りやめようかと思う程度には責任を感じながら行動している。
 
 
 

Amazonレビューの良心

 
 さて、Amazonレビューにおいて評価を得ているものについての憤りをここまで話してきたわけだが、ふたつめに表示されたレビューは私の言いたいことを全て言ってくれていたので一部を抜粋する。
 
この映画のテーマのひとつは、"結果を伴わなかった過程は全否定されるべきなのか?"ということだ。
人間は善行には良い結果、愚行には悪い結末が伴うと信じずにはいられない生き物である。
主人公は息子に好かれる優しい父親で、気難しい隣人にも誠実な対応をし、身勝手な行動をとった赤の他人でさえも命懸けで救おうとしたりと、絵に描いたような善人である。
しかしこの映画では最悪な結末を用意することで、視聴者に善人であったはずの主人公を全否定させ、カルト女が正しかったと受け入れさせてしまう。
しかし、冷静になって考えてみてほしい。主人公を結果論的に評価してしまう視聴者は、その場その場の感情に流されてカルト女に扇動されてしまった狂信者と同じではないだろうか。
結果至上主義の危うさ、そして自分に都合良く記憶を書き換えてしまう人間の性質と洗脳は表裏一体であることを、この映画は気づかせてくれた。
 
 読めば読むほど素晴らしい意見で、ひとつめのレビューを読んでカッとした心をスッとさせてくれる結果になった。本当に言語化してくれてありがとうございます。
 
 しかしスッとしたとはいえ、ひとつめのレビューの方が数字の上では支持を得ているという現状がとても危ういものだと感じているのは確かだ。極端なたとえ話をすれば、いくら自分が思うなかでの最善を尽くして行動し、環境も跳ね除け、やりきったと思っていたとしても、結果さえ出なければ「カルト教団」呼ばわりされてしまうという現実だ。思考停止なんかには負けず、自分の責任において立ち向かったのに、だ。
 
 

老夫婦の台詞に凝縮されたメッセージ

 
 この映画が示すテーマというものを絞り込む事は出来ない。私のように、世の不条理さとその中での生き方を的確に表現した作品だと捉える人も居れば、また違った考え方をする人も居るだろう。しかし製作者が言いたかった事は、細かいフレーバーとして作中に散りばめられているのではないかと思っている。
 
 ラストシーン間際、デイヴィットに同行した老夫婦は最期の時を察してこう話す。
 
「出来る限り努力した」
「誰も否定できない」
 
「そうね 誰も否定など出来ないわ」
 
 これは強がりでもなんでもなく、そう思ったことであろうと思う。そして製作者が言いたかった事も、これだったのではと思っている。
 
 しかしここで疑問が生じる。もし製作者がこの事だけを言いたかったのであれば、引き金を引いたところでフェードアウトしてエンドロールに入っても良かったのだ。その後に大オチを用意したのは、一体何故なのか。
 
 

より深みが増した終わり方

 
 どうやら原作の小説版では、車に乗って脱出する際にラジオの電波が入り、希望をもたせた上での終わり方だったそうだ。そこを映画版のプロットへ書き替える際に「ホラー映画を見に行く人が皆ハッピーエンドを望んでいるわけではない」という監督の思惑が入ったらしいのだが、どういう経緯でその書き換えが発生したかを問わず、これは大英断だったのではと思っている。
 
 終わり方を書き替えることによって「辛かったけど、やれることはやったよね。恐怖は続く……」といった程度の話を「やれるだけやっても、ダメな時はある」という、より真理に近いテーマに落とし込めているのだ。そして追い打ちとして軍による救助を描く事によって「これでもデイヴィッドが失敗したと言えるか?」という問いかけをしているのだろうと思う。
 
 そしてその試みは(少なくとも日本語版のAmazonレビューにおいては)成功した。意見がハッキリと分かれ、更に、私が思うにだが、大半がミスリードさせられている。これは壮大な実験だったのでは、とすら思う。狙ってやったのだとすれば、なかなか見られない芸当だ。スゴイ。
 
 
 というわけで、感想を書いてみるとより映画の深みを感じられて楽しいという話でした。みんなも感想、書いていこうな。
 
 
 
 

ブラジルの公用語がポルトガル語なの、なんでなの

 そういえば昔からFPSなんかで知り合うブラジル人の方々は、皆ポルトガル語を話していて、自分自身も違和感なくそれを受け止めていた。

 

f:id:kaoru_san:20200521170756p:plain

▲当時、ブラジル人の方から教えて頂いたありがたいお言葉

 

 そもそもポルトガルの場所すらよくわかっていなかったので調べてみると、ココにある。

f:id:kaoru_san:20200521170951p:plain

 

 スペインの西海岸はほぼポルトガルらしい。知らなかったね(義務教育の敗北)。

 

 ブラジルが南アメリカにあることは知っていたので、位置関係からするとアメリカ大陸の発見と関連があるような気がして調べてみる。

 

 Wikipediaさんによると、新大陸(アメリカ)をコロンブスが発見したのを皮切りに、西側への進出がブームになったらしく、当時の航海技術における2大巨頭であったスペインとポルトガルには優先的に進出権が割り振られることになったらしい。

 

 その際に話がこじれないよう定められた子午線があり、実際は大陸の進出権ほぼ全てがスペインが持っていた(本当はこの時点で既に話がこじれていたらしく、そのへんの話も面白いのだが割愛)。

 

f:id:kaoru_san:20200521172920p:plain

 

 正直言ってかなりポルトガルに不利な条約で、可愛そうこの上ないのだが、よく見ると抜け穴というか、大陸の全貌を把握出来ていなかったために起きたであろう現象がある。

 

f:id:kaoru_san:20200521173641p:plain

 

 子午線は、なんとなくわかる範囲で適当に引いた上で交渉・譲歩なんかをしていた為か、今こうして見てみるとかなりガバい。

 本当はこの条約に関しては両国ともそこまでナーバスに考えていなかったようだけれど、ともかく上記画像のように明確にハミ出していたり、はじめにここへ到達したのがポルトガル人だったという事もあって、ブラジルへの植民はポルトガルが行う事になったそうな。

 

現在のブラジルの方々がポルトガル語を話している理由(と思われるもの)でした。

 

 

おまけ:

実はポルトガル人冒険家がブラジルを発見するより前に、スペイン人冒険家がここへ到達していた。しかし、そこをインドだと思い込んで帰ったためノーカンになったそうです。