映画『ミスト』感想

Amazonのレビュー

 
 この映画を鑑賞し、思うところがあり感想を書き始めたあたりでふと気になって一旦筆を置き、Amazonビデオの作品レビューを上から2つほど見てきた。どれよりも大きく支持を得ているレビューと、評価数で言えば前者の5分の1程度のレビューの2つだ。
 
 曰く、何よりも評価されているレビューが言わんとしているのは「主人公デイヴィッドこそが死を招いたカルト教祖そのものだったのだ」というもの。そればかりか「カーモディはよく見ると何一つ手を下していない」とまである。
 
 このレビューを見た際、正直に言えば「カッときた」と言っても過言ではない。
 
 私がこの映画を終始デイヴィッド視点で見ていたのは事実で、カーモディの事を「心が弱い人間」と捉えていたのは認める。しかし、それにはしっかりとした理由があるし、今でも間違ってはいないと思う。
 
 

過程と結果の不合理

 
 人間は何をするにつけ、目的を持って行動する。そしてそれを達成するための手段をいくら考え抜こうとも、結果が伴うとは限らない。確度を限りなく上げたとしても、100%には絶対にならない。そういうものだ。
 
 特に劇中のシチュエーションのように先が見えない状況においてそれは顕著で、このような場合は仮定に仮定を重ねてリスク・リターンの計算をしながら動くしかないのだが、そのためにはまず『この先何が起こるか「わからない」』と、認識しなければいけない。そこを間違えると、何も始まらない。
 

Amazonレビューに生まれる本物の「信仰」

 
「仲間を死に追いやったカルト教祖は主人公デイヴィッドこそであった」
 
 こうして文字にしながら考えるほどに許してはいけない思想だと思うので許さないわけだが、おそらくレビューの筆者は厳しい環境において育ち、同様の社会経験を積んできたのだなと勝手な想像をしている。
 
 というのもそれが「結果史上主義」すぎるためで、不確定なものに相対するときの結果至上主義というのは、場合によっては全てがひっくり返る極めて軽率なものであるからだ。
 
「わからないもの」例えば霧に包まれてマーケットに閉じ込められた状況において次に何をすべきか、という論争は、サイコロの出目を占うのに等しい。サイコロの出目を予想するにあたっては、参加者は全て平等である。当たりもすれば、はずれもする。そして結果は誰にもわからない。
 
 このAmazonレビューが言っている事は、サイコロを振って「絶対にピンゾロが出ると言っていたカーモディを無視して、3-2の5が出るかもしれないと予測して出て行ったデイヴィッドこそ、まさしく死神だった」と言っているのに等しい。たまたまピンゾロが出てしまっただけなのに、である。
 
 このレビューに「役に立った」が1000件以上寄せられているわけだが、つまりこれこそが信仰なのだなと思い至った。たまたま結果を残せなかった人間を袋叩きにして、たまたま結果を出せた人間を全知全能とみなす行為。恐らくだが、こういった人々に共通しているのは「先のことはわからない」という認識が不足しているという事だろう。歪みと言ってもいい。
 
 

信じるものは思考停止する

 
 問題解決の際はまず「わからない」という事を認める事が必要、というのは何度も書いた。しかし「わからない」という事を認めて仮定に仮定を重ねて思考していく行為、というのは、非常にストレスのかかるものだ。人間は、誰しもそういったものからは逃避したくなるように出来ている。
 
 そこで甘言を差し伸べてくれるのは「神」であったり「ツキ」であったり「絶対的指導者」であったりする。簡単に言えば、それさえ信じていれば何も考える必要がないという存在だ。これは非常に脳へのストレスが少ない。ゼロかイチ、白か黒、善か悪、そんな感じで世の中を認識していれば、それはとても楽である。
 
 カーモディはそれを(意図的ではないにせよ)利用して求心したわけだ。極限まで追い詰められた状態において、この世の中の解像度はあまりに高すぎる。不確定なものというのは、すなわち恐怖であり、ストレスだ。ストレスからは逃避したい。だから「わかる」と言い切ってくれる人を欲してしまう。彼女の事さえ信じていれば、このストレスから逃れられる。そういう思考の流れだろう。
 
 

カーモディの問題点

 
 もちろん、信仰するもしないも個人の価値観であり、それは自由である。カーモディの問題点は信仰そのものではなく、それを他人にまで押し付けてきたという事にある。
 
「わからない」を否定して見えない事にするという行為は、各々の心の強さ、弱さがある以上は非難出来ない事だ。しかしその逃避を理由に他人を制限したりする事は許されない事だと思うので、絶対に許さない(あくまで個人の意見なのでこういう表現をしています)。特にデイヴィッドは「わからない」という事を認識し、思考し、自分の責任において行動ようとしていた人物だ。それの足を引っ張る行為が妥当だったとは、とても思えない。
 
 責任、という観点でもカーモディには大きな問題がある。
 
 それというのも、カーモディが行う発言はすべて「神の名において」であるのだ。何かあればそれは神の意思という事になり、いざという時に自分が責任を取る気は微塵もない。それどころか他人に全ての責任があると断言して、信徒に殺害するように仕向ける始末だ。カーモディとは対極的にデイヴィッドは、薬局から戻った際に一度は脱出計画を取りやめようかと思う程度には責任を感じながら行動している。
 
 
 

Amazonレビューの良心

 
 さて、Amazonレビューにおいて評価を得ているものについての憤りをここまで話してきたわけだが、ふたつめに表示されたレビューは私の言いたいことを全て言ってくれていたので一部を抜粋する。
 
この映画のテーマのひとつは、"結果を伴わなかった過程は全否定されるべきなのか?"ということだ。
人間は善行には良い結果、愚行には悪い結末が伴うと信じずにはいられない生き物である。
主人公は息子に好かれる優しい父親で、気難しい隣人にも誠実な対応をし、身勝手な行動をとった赤の他人でさえも命懸けで救おうとしたりと、絵に描いたような善人である。
しかしこの映画では最悪な結末を用意することで、視聴者に善人であったはずの主人公を全否定させ、カルト女が正しかったと受け入れさせてしまう。
しかし、冷静になって考えてみてほしい。主人公を結果論的に評価してしまう視聴者は、その場その場の感情に流されてカルト女に扇動されてしまった狂信者と同じではないだろうか。
結果至上主義の危うさ、そして自分に都合良く記憶を書き換えてしまう人間の性質と洗脳は表裏一体であることを、この映画は気づかせてくれた。
 
 読めば読むほど素晴らしい意見で、ひとつめのレビューを読んでカッとした心をスッとさせてくれる結果になった。本当に言語化してくれてありがとうございます。
 
 しかしスッとしたとはいえ、ひとつめのレビューの方が数字の上では支持を得ているという現状がとても危ういものだと感じているのは確かだ。極端なたとえ話をすれば、いくら自分が思うなかでの最善を尽くして行動し、環境も跳ね除け、やりきったと思っていたとしても、結果さえ出なければ「カルト教団」呼ばわりされてしまうという現実だ。思考停止なんかには負けず、自分の責任において立ち向かったのに、だ。
 
 

老夫婦の台詞に凝縮されたメッセージ

 
 この映画が示すテーマというものを絞り込む事は出来ない。私のように、世の不条理さとその中での生き方を的確に表現した作品だと捉える人も居れば、また違った考え方をする人も居るだろう。しかし製作者が言いたかった事は、細かいフレーバーとして作中に散りばめられているのではないかと思っている。
 
 ラストシーン間際、デイヴィットに同行した老夫婦は最期の時を察してこう話す。
 
「出来る限り努力した」
「誰も否定できない」
 
「そうね 誰も否定など出来ないわ」
 
 これは強がりでもなんでもなく、そう思ったことであろうと思う。そして製作者が言いたかった事も、これだったのではと思っている。
 
 しかしここで疑問が生じる。もし製作者がこの事だけを言いたかったのであれば、引き金を引いたところでフェードアウトしてエンドロールに入っても良かったのだ。その後に大オチを用意したのは、一体何故なのか。
 
 

より深みが増した終わり方

 
 どうやら原作の小説版では、車に乗って脱出する際にラジオの電波が入り、希望をもたせた上での終わり方だったそうだ。そこを映画版のプロットへ書き替える際に「ホラー映画を見に行く人が皆ハッピーエンドを望んでいるわけではない」という監督の思惑が入ったらしいのだが、どういう経緯でその書き換えが発生したかを問わず、これは大英断だったのではと思っている。
 
 終わり方を書き替えることによって「辛かったけど、やれることはやったよね。恐怖は続く……」といった程度の話を「やれるだけやっても、ダメな時はある」という、より真理に近いテーマに落とし込めているのだ。そして追い打ちとして軍による救助を描く事によって「これでもデイヴィッドが失敗したと言えるか?」という問いかけをしているのだろうと思う。
 
 そしてその試みは(少なくとも日本語版のAmazonレビューにおいては)成功した。意見がハッキリと分かれ、更に、私が思うにだが、大半がミスリードさせられている。これは壮大な実験だったのでは、とすら思う。狙ってやったのだとすれば、なかなか見られない芸当だ。スゴイ。
 
 
 というわけで、感想を書いてみるとより映画の深みを感じられて楽しいという話でした。みんなも感想、書いていこうな。