東京クロノス ネタバレ無し感想

「東京クロノス」は
 PSVR、またはOculus Quest 2等のプラットフォームで楽しめる日本製のVRビジュアルノベル ゲーム。簡単に言えば、最低限の分岐をはらんだ文字読みゲー です。
 
 とまあ、なんだかつまらなそうな表現になってますが、それでもわざわざ記事にするのだから、気に入っているという事ですね!
 
 

最後にはみんな他人じゃなくなってる

 
 ストーリーは「無人の渋谷に、自分含むかつての幼馴染たち8人だけが取り残された」という導入で、それぞれが協力したりしなかったりしつつこの世界からの脱出をはかる、といった感じのもの。最終的に言いたい事とは関係がないので、あらすじの雑さには目を瞑ってほしい。
 プレイヤーは主人公である男の子に憑依するような形で、彼の目を借り、彼の声を発して物語を追っていくことになるのだけれど、8人がかつての幼馴染であるという事実については言葉の端々から汲み取ったり、記憶をたどるシーンで当時の様子を伺ったりなどで徐々に理解していく仕組みになっている。
 概要はここまでとして、ここで伝えたいことは物語を走り終えた時に自分の心の中に芽生えた感情のことだ。それは「こいつらは俺にとって他人ではない」という感覚だった。 
 

思い出も守りたい想いも自分のものになる

 
 ストーリー上のキャラクターの行動原理については正直なところ、そうはならんやろと思ってしまう部分は一部存在する。これについては人によって受け取り方が違うので、あくまで自分はそう思ったという程度の話である。しかし、結局プレイを終えてしまえばそんなことすらどうでもよくなってしまった。それは一体何故なのか。だって、これは、俺たち自身の物語だから……
 お前は一体、何を言ってるのだと。そう言いたくなるだろうけど、感じた気持ちは本物なのだから、こう表現するほかない。当事者感覚というものが芽生え、それはどうやら些細なことを忘れさせるようなのだ。これが本作で一番驚いたことである。しかしなぜ、このようなものか生じるのか。ここで一旦、システム面で関心した部分について語る。
 

いまどんな顔してる?が確認できる

 

 本作はVRであるから、周囲を自由に見渡すことが可能だ。とはいえ、さほどグリグリと動きまくるような絵面ではないので、見てるだけで面白い!エンターテイメント!というわけにはいかない。しかし本作は、謎に挑み、キャラクターの思考を想像したくなるようなビジュアルノベル作品である。地の文と会話の繰り返しで物語は進むのだが、ここで文章を追いながら、自分がユニークな行動をとっている事に気づく。
 すなわち「このタイミングで、あいつはどんな顔をしてるんだろう?と思い、そちらを振り向く」という動作だ。
 

 カットやフレームがないという事  

 
 開発者の方の対談などもいくつか読んだのだが、VR世界での映像表現の作り方というものは、これまでの映像作品とは全く異なるもののようだ。というのも、映画やアニメではフレーム(要するに画面・カメラフレームのこと)やカットを意識して作る必要があるのだが、VR作品にフレームは存在しない。注目してほしい部分があるのなら、プレイヤーの「意識」をそこに向け、振り返らせるような仕掛けが必要になる。
 たとえば視界内のキャラクターたちが一斉にある方向へ振り返り、指をさすなりすれば、そっちが気になって振り返ってしまうだろう。
 前述した「あいつどんな顔してるのかな」はこれとはまた少し違った要素だけれど、製作者の注目してほしい部分でなくてもプレイヤーが気になったところを自由に確認出来るというのは実に面白い。プレイヤーの数だけのフレームが存在する、といったようなイメージだ。
 

 声のチューニング

 
 本作の特徴的な部分で、音場の作り方がある。立体音響なので、キャラクターの居る方向からしっかり声が聞こえる。そして何よりユニークなのは「自分の声」だ。正確には自分が憑依しているキャラクターの声なのだが、これも立体音響によってまるで自分の声帯から発せられているような位置から聞こえてくる。また、そうしたチューニング施しているのかもしれないけれど、自分の声帯から発せられている(と錯覚する)キャラクターの声の聞こえ方が、他人として聞くときのそれと少し違うのだ。
 わかりやすい例をあげると、現実世界において自分が話しているときに聞こえている声と、それを録音して聞いた時とでは聞こえ方がぜんぜん違う!と思う体験は、ほとんどの人が経験していると思うが、それと似通った違和感が、どういう仕組みなのかわからないがゲーム内で実装されているのだ。あまりにも独自の体験である。
 

当事者感覚の芽生える理由

 
 ここでシステム面の話から「当事者感覚」の話に戻る。なぜシステム面の話を挟んだかなのだが、実際自分にはこの当事者感覚が何によって得られたのか、未だに判断がついていないのだ。
 考えられる候補としては、ストーリーテーリングが素晴らしく、かつ自分が許容できる内容であったから、という可能性がひとつ。もう一つは、これがVR作品で、上記のように工夫されたシステムのひとつひとつが影響して、この当事者感覚を作り上げたのかもしれない、というのがひとつ。
 各種のシステムにより巧妙に「自分がそこにいる」と刷り込まれた結果物語への没入感まで増してしまったのではないのかと睨んでいるのだが、もしかすると両方あってこそ奇跡的に得られた得難い感覚なのかもしれない。
 

VRである意味があったかどうか

 
 一部のレビューを見ていると「VRである意味はなかった」などと言われている場合があるのだが、自分は上記のような理由からまだ判断しかねているところがある。実際、これがVRでないただのビジュアルノベルであったとして、ここまでの当事者感覚を得られたかどうか、というのがわからないからだ。そう、たしかに本作のVR要素はわかりやすい「体験」ではないし、こんなことが出来る、といったように他人に紹介できるような派手さはないから、VRである意味がなかったのでは?と思ってしまう事もあるのかもしれない。
 

気になった点

 
 これは開発側があえて設定したことであるそうなのだが、とにかくVR世界でのキャラクターが「クソデカい」のだ。これには色々理由があって、まず第一にVR酔いの防止。目が疲れないよう文字をなるべく遠くに配置しつつ、文字とのバランスを破壊しないために逆算してキャラクターのスケールを大きくしている。また、キャラクターモデルを細部までよく見えるようにして、視覚的な魅力を損ねないための工夫をしている、とのことだ。
 クソデカいと言ったがどのくらいかと言うと、これはもう開発が自ら公表しているが3.5倍スケールで作っているらしい。
 至近距離のキャラクターはその半分くらいにチューニングしたりなどはしているものの、何にせよ1.8~3.5倍スケールのキャラクターが「そこにいる」という感覚は、やはりムックやガチャピンのきぐるみの存在感と一緒なのだ。キャラクターモデルは確かにとても良く出来ていたから良いのだけれど、こうした「体験を切り捨てて表現を選んだ」作品であるならば、たとえば至近距離に女の子が来てドキドキするというようなシチュエーションも、完全に捨ててしまってほしかった。正直、ドキドキするどころか目の前にガチャピンくらいのサイズの美少女が居ることの不思議さが勝ってしまった。
 

というわけで

 
 おおむね2~3日かけて13時間強くらいでのクリアとなった本作だが、 そこからレビューや感想を読みふけり、お気に入りの劇中歌「光芒」をハイレゾで購入しヘビロテし、こうした記事を書いている時間まで含めて4日程度としよう。
 この時間、とても尊いものだった。
 たとえば、筆者は音楽というものを完全に音から楽しむタイプで歌詞は一切頭に入っていないのが通常なのだが、今回に限ってはむさぼるように歌詞を聞き取ろうとし、聞き取り、意味を理解して全身に鳥肌を立たせ、多幸感とともに胸のあたりが暖かくなっている。
 ゲームに夢中で、そのことばかりを考えてしまうという時間はもう随分長い間なかった。たとえばダンガンロンパシリーズや、逆転裁判シリーズ、シュタインズ・ゲートなんかを触ってみれば、また同じように熱中できるのかもしれない。だが、考えれば考えるほど、今この胸でくすぶっている当事者感覚は得られないような気がするのだ。