「こうあるべき」という暴力

 「正しさ」の呪い

 
 よく「正しさ」を測ろうとする人間がある。
 わかりやすく言えば「こうするべき、こうあるべき」といった類の概念を振りかざす人間のことだ。
 
 まず初めに断っておくと、これは明確に「呪い」でしかない。しかし、それを行使する側、また、その受け手ですら、その本質に気づかず、すっかりその「正しさという呪い」に捕らわれてしまっている場合がある。
 
 そして私はこの「正しさという呪い」が大嫌いなので、いかにそれが馬鹿らしいものなのかを書き殴って知らしめてやろうと、キーボードを叩いている次第だ。
 
 

身近な「正しさという呪い」

 
 例えば子供を授かった、またはこれから授かる予定の父母が「ちゃんとした母になれるか、父になれるか」といった不安を抱くのも、よくある捕らわれのパターンである。
 要するに、誰が言い始めたかもわからない「パパこうあるべし」「ママこうあるべし」という型に、自分がピッタリはまるのだろうか?といった漠然とした不安を抱えているのだ。
 
 こうした「こうあるべき」の呪いは、探し出せばいくらでも見つかる。お兄ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから、男なんだから、女なんだから、若いんだから、年寄りなんだから、学生なんだから......
 こうした「分類」や「レッテル」は、自然に発生するものではない。何らかの目的を持って、どこかの誰かが作り上げるものだ。これに例外は、1つも無い。
 
 

分類は「手段」であり本質ではない

 
 そもそもの話、人間は生まれた瞬間から別個体であり、それぞれ千差万別どころではない違いを持ち、その違いは全くのグラデーションで、本来、簡易にでも分類することは出来ないものだ。それでも現状、人種、国籍、性格、思想なんかでざっくり括られているというのは、人間側が「何らかの目的を達成するために」「勝手に」「線引きしているだけ」というのが実情である。
 
 そう、分類とは「目的を達成するために」行われるものであって、そのものの「本質」とは一切の関わりを持たない。ただの手段であり、手段の背後には人間の意図がある。人間が、自らの目的のための手段として、勝手に色々なものに線引きし、括って、あわよくばコントロールしようとしている。これが分類、レッテル貼りの正体だ。
 
 

分類する側は、イレギュラーを許さない

 
 分類を行う側、レッテルを貼る側というのは、前述した通り「何らかの目的」を持っている。そして目的を達成するにあたり、分類した物のイレギュラーに対しては、とても厳しくあたる。
 
 例えば、子を持つ父母の例を思い返してほしい。
 
・「パパ、ママ、こうあるべき」というのは、意図的に、誰かによって作られた「分類」である
・分類した側には、何らかの達成したい目的がある。それは多種多様である
・分類した側からすると「あるべき姿の父親像、母親像」から外れた存在というのは、目的達成の障害となるイレギュラーである
・分類した側は、分類から外れた存在を徹底的に叩いて矯正しようとする。→「ママなんだからしっかりしなさいと暴言を吐く」etc...
 
 この例における「分類した側」と、その目的については、多種多様であり明確なものを提示することが出来ない。先ほども言った通り、人間の違いはそれぞれグラデーションであって、これは「分類した側」も同様であり、各々違った目的で「分類」を行っている。しかし、目的は違えど一貫している部分がある。
 

立派な目的も感情由来でしかない

 
 それは、その人間にとって心地よい(好きな)状況にしたい、という本音であり、本質だ。極めて感情的なものであって、高尚なものでは無い。例えば空から、曇り空を割って、光と共に降って賜るようなものでもない。
 
 経済的効果をあげる、治安を維持する、幸福の総量を増やす、などよく語られる「目的」は、たいそう立派に聞こえてしまう。しかし、これらが特筆して素晴らしいのかというわけではない。どこかの誰かが、そう思っただけだ。
 
 経済的効果に全く興味が無いだとか、他人の幸福なんてどうでも良いだとか、そういう考え方が特筆してダメだ、という話にもならない。どこかの誰かが、そう感じただけだ。
 
 

「正しさ」の正体

 
 ここまで読んだ方にはもうお分かりかと思うが、世にはびこる「正しさ」とは、その「正しさ」を啓蒙する者が、何かを成しえようとする際に振り回す「手段」に過ぎない。
 
 つまり「正しさの啓蒙」というのは、その「正しさ」で他人を殴りつけて、自らの心地よい状況をつくりあげる、というためだけの、感情由来の行為である。
 
 今まで怯えていたものが、急に馬鹿らしく見えてこないだろうか? 所詮、誰かが自身のために、勝手に言いだしただけの事なのだ。いくら耳触りの良い立派な話でも、知らねえよ、と思ったのなら、知らねえよで良いのだ。
 
 この考え方がわかると、分類やレッテルが怖くなくなるという一面もある。というのも、分類やレッテルが何故行われるのか、もう貴方はよく分かっているからだ。
 
 しかし「正しさ」に泣かされている人が、別な「正しさ」で対抗してはいけないとも思っている。では、何で対抗すれば良いのだろうか?
 
 

「正しさ」は使いたくない

 
「正しさ」というのは、世の中に強く結びついてしまっている概念だ。人間が他の動物と違うのは、社会性を身に着けた所だという話がある。社会性とは、集団の利益を尊重するということであり、そのためには「分類」し「正しさ」を振り回して「イレギュラーを爪弾きにして」コントロールるする必要があった。しかしその仕組みは、グラデーションにおける一部の中間色な人間にとっては、とてつもなく居心地の悪い事であっただろう。
 
 今、こうしてキーボードを叩いて文章を書いていられるというのは、その社会性を帯びた世界のおかげではあるので、それを全く否定してしまうという事は、私には出来ない。しかし、少なくとも自分が発する物に関しては「正しさ」をなるべく使いたくない、というのが正直な所だ。
 

「正しさ」の代わりに使えるもの

 
 何かについての意見を表明したい時、いつものの調子だと、うっかり「○○が正しい」「○○は間違っている」と言ってしまいがちだ。しかしそれは、自分が、自分の意図に反したものを攻撃し、あわよくばコントロールし、それが存在しない世界を作り上げたい、というエゴが由来である。ということに、まずは気づけるようになってほしい。
 
「正しさ」を振り回す裏には、常に何かしらのエゴ、意図が存在していて、それは自分だって、もちろん例外じゃないのだ。
 
 だからこれからは、自分でしっかり納得の出来る目的が無い限りは「正しさ」は使わずに「○○が好き」「○○が嫌い」と言うようにしてほしい。それが本来の、人間の限界だと思うからだ。
 
 これらを実際にやってみると、なにか違和感を覚えるはずだ。なんだか、自分の意見がとても小さく感じられるような違和感だ。○○は正しい!と言うのに比べて、○○が好き、というのは、とても弱く感じるだろう。しかしそれが本来、いち個人が抱えられる権威性の限界だと思う。
 
 これまでは「正しさ」を盾に、めいっぱい他人を殴りつけてきた。自分が正しいのだから、お前の意見は尊重しない、ということを、平気な顔でやってきた。それを変えなければいけないと思う。
 
 

「好き」か「嫌い」かは無限大

 
 「正しさ」とは普遍的なものだ。他人をコントロールするための手段なのだから、ブレがあってはいけない。
 しかし「好き」「嫌い」というのは、ひとりひとり違う、グラデーションだ。同じものを見たって「好き」か「嫌い」かは分かれる。どのくらい「好き」か「嫌い」かの程度だって全然違う。そして、どう感じたとしても、それは決して間違いではない。好きや嫌いという感情は、他人をコントロールするためのものではなく、自分の中から発せられるものであって、そして、それは何よりも尊ぶべきものだと思う。
 

「嫌い」も使って良いの?

 
 何かの漫画の一コマの「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というセリフが取り沙汰されていた時期がある。これを見た当時は心の底から気づきを得たし、共感すらした。でも、今の私は「嫌い」な事だって語って良いと思っている。
 
 というのも、この「何が嫌いより、何が好きかで~」の標語にしても、これだって我々が忌み嫌うべき「正しさ」という、他人を殴るための棒なのだ。どこかの誰かが、他人の「嫌い」を見たくなくて、見たくないものを見ないために、ありがたがって触れ回った一コマに過ぎない。だから「嫌い」を発信したい人は、臆せず自由に発信すれば良いと思うし、「嫌い」を発信したくないのであれば、しなければ良い。それは、誰かに縛られる選択ではないし、他人を縛るなんて横暴は、なおさらだ。
 
 

まとめ

  1. 「正しさ」は他人を殴るための棒
  2. 「正しさ」を盾にすると人間は限界を超えた権威性を持つ
  3. 「好き」か「嫌い」で語る事は、誰にも縛られないもの
 
 
 
 

「ロード時間」はAAAタイトルをスマホゲー以下に貶めるか

こんな体験をしたことがないだろうか?
 
・据え置きのゲーム機を起動するのが面倒くさい
・steamで買った大作ゲームを、1~2回遊んでしばらく起動してない
・一方、スマホゲーは毎日ログインして継続的に遊んでいる
 
かくいう私も全くの「それ」で、
据え置き機でゲームを買っても続かないし、
定期的にセールされるsteamで買ったAAAタイトルも放置しがちだ。
そのくせ、気に入ったスマホゲーはちょくちょく起動して触っている。
 
思うに、前者2つには大きな特徴があるように思う。
 
それは「起動のかったるさ」であり、
「お手軽さが無い」という事であり、
結果「習慣化しづらい」という事である。
 
詳しく説明していく。
 
 
 

人間は最初の一歩が重い

 
まずは人間の習性について少し話す。
 
例えば、
やれ勉強に手がつかないだとか、
出かけるのが面倒くさいだとか、
それでいて、いざ手がついてしまえば勢いが乗ったり
素直に楽しんでしまったりするという不思議な現象。
 
これらはあらゆる自己管理の基本となる仕組みだ。
 
とにかく人間は、最初の一歩「だけ」が重いのだ。
その後は案外、勢いでどうにかなってしまう。
 
例えば、勉強であれば、
やらなきゃと思えば思うほど全く手につかないので、
とりあえずノートを開いてペンを用意するところ「だけ」をやってみる。
 
例えば、お出かけなら。
インドア派にとってのお出かけは決死の覚悟が必要になるため
とりあえず服を選んで着込むところ「まで」をやってみる。
 
そうすることで案外そのまま、
するっと行動まで起こせてしてしまうのだ。
 
うまく自分を騙して最初の一歩だけをクリアさせる事。
これが行動を起こすためのコツだ。
 
 

ロードの遅さは「最初の一歩」を殺す

 
発売直後などまだ話題性があるゲームの場合、
強大なモチベーションが働くため細かい仕様は意に介さない場合が多い。
 
しかしいざ勢いが落ち着いてきて、プレイが「日常」に差し掛かると
途端に「ロード時間」のウェイト、
起動までの時間が潜在的なストレスとなり膨れ上がる。
しかも多くの場合、そのストレスには自覚がない。
 
先程説明した「人間は"最初の一歩"さえクリアすれば行動できる」という原理。
 
これで言うところの「最初の一歩」を殺すのが
ロード(起動)時間と、それによるストレスなのだ。
 
 

スマホゲーの工夫

 
日本において爆発的な人気を誇るスマホゲーではあるが、
なぜこれほどまでに莫大なシェアを抱えたかと言えば
いくつかの要因があるように思う。
 
・表現力が据え置き機に比べて遜色ないレベルになった
・無料で遊べる取っ付きやすさがある
・空き時間に遊べる取っ付きやすさがある
 
つまり、据え置き機に比べて全てにおいて取っ付きやすさが段違いなのだ。
日常的に触れるようになる、というのは「習慣化する」とも表現出来る。
 
ゲーム内容が多少見劣りしたところで、全く問題は無い。
それほどまでに「習慣化」というものは強力なのだ。
 
 

習慣化を促す仕組み

 
スマホゲーには習慣化を促す仕組みが多数存在しており、
ログインボーナス(以下ログボ)*1はその最たる例だ。
 
 ログボという馬ニンジンを用意する事で、人間にとって一番のハードルである「最初の一歩」を強引にクリアさせてしまうのだ。
ゲームさえ起動してしまえば、ちょっと遊んでみようかなという気にもなるし
軌道に乗れば、その延長線上で課金までするかもしれない。
 
最近ではその流れが据え置き機にまで波及し、
大ヒットタイトル「モンスターハンターワールド」においても
ログインボーナスの採用が確認出来た。
 
このゲーム、特にPS4版は近年稀に見るほど超長大なロード時間であった事もあり、ブランド力や話題性を差し引いても少し工夫する必要があったのかもしれない(単にMHFからのベタ移植という話もある)。
 
 

据え置き機の工夫

 
「すぐ手に取れるようにする」という価値観は
スマホゲーだけでなく据え置き機においても意識されており
現行世代機では標準装備となった「スリープ(スタンバイ)機能」はその代表例だ。
 
とにかくゲーム機の起動が遅いとユーザーは離れていくため、
PCと同じような仕組みで起動速度を向上させ、
より「手軽に遊べる感」を向上させている。
 
また、無線コントローラーの標準化や
コントローラのボタンで本体の電源をONに出来る機能の搭載、
 
Nintendo Switchにおいては、
本体に連動してテレビの電源もONにする機能まであり、
あらゆる手段において「最初の一歩」をどうにか踏み出させようとする工夫がある。*2
 
 

大作ゲームを積まないための工夫

 
我々はゲームが大好きな生き物であるが、
同時にゲームを積んでしまう罪深い生き物でもある。
 
なのでここでは、前項までの知識を使って
「どうすればゲームを積まずに遊べるのか」を考えていく。
我々に出来る事は、極力すぐに遊べるよう準備しておくことだけだ。
 
  1.     アップデートを済ませておく
  2.     本体やコントローラの充電を済ませておく
  3.     周辺機器をなるべく手元に置いておく
  4.     (可能なら)SSD化などの高速化を行う
  5.     (詰まるのが嫌なら)攻略サイトをブックマークしておく
  6.     お菓子とお茶などを用意しておく
       etc...
 
以上はあくまで例だが、環境を整えれば整えるほど
プレイへのハードルはどんどん低くなるだろう。
 
もし、何かをやりたい気持ちがあるのに
結局やらないで終わってしまう…と悩んでいる方は
まず「環境を作る」ところから初めてみては如何だろうか。
 
これはゲームに限らず、どんなものにでも使えるライフハックだ。
 
 

*1:※ちなみに習慣化による依存としてタバコやアルコール等があるが、

ゲーム自体は殆どプレイしないのにログボだけは貰い続けている友人を見ていると
ややそれに近いものを感じる

*2:※Switchは充電器から本体を引き抜くと数秒で遊び始められるという手軽さも良い

「野良マッチ」でイライラしないための考え方

 
 

1v1ゲームとの違い

 
チーム vs チームの対戦ゲームにおける「ソロキュー」
いわゆる野良マッチは、多くのプレイヤーにとってストレスが多いものだ。
 
というのも、1v1の対戦ゲームにおける敗北とは
自分の責任においてのみ生じるものであって、
少なくとも「次回はこうしよう」という行動に繋げられるものである。
一時的にはそれがストレスであっても、
自己の成長へと昇華出来る可能性が十分にある。
 
一方、チーム戦の場合
「味方が上手く動いてくれなかった」という、見て見ぬ振りをするには
少し厳しすぎる位に大きな、新たな敗北の理由が追加されてしまう。
これが1v1ゲームとの大きな違いだ。
 
よく聞く「味方のせいにしているうちは上手くならない」
という説教については後ほど説明する。
 

なぜチーム戦の敗北がストレスフルなのか

 
味方が上手に動いてくれない等の「自分にはどうしようもない部分」による敗北
これがストレスの正体である。
 
アドラー心理学という有名な考え方において「課題の分離」というものがある。
簡単に説明すると「自分の出来る範囲の事だけをやろう(考えよう)」というもので
逆に言えば「自分がどうにも出来ない部分については考えるだけ無駄だからやめろ」
という話だ。それだけでストンと納得出来れば苦労しないのだが…
 
野良マッチでは毎回味方になるプレイヤーも違うし、
敵側にだけ異様に練度が高いプレイヤーが集まってしまったりというような
偏ったシチュエーションが多々ある。
 
そんな風に「自分がどうしようも出来ない部分」が多すぎるため、
課題の分離がうまく出来ずにイライラが募ってしまうのだ。
 
しかしこんなイライラを(ある程度)吹き飛ばせる考え方がある。
 

「麻雀」というゲーム

 
麻雀というゲームがある。
麻雀に自信がある人は、読み飛ばしてしまっても構わない。
 
麻雀というゲームのルールをよく知らない人のために説明すると、
ランダムで配られた13枚の牌(手札)をもとに、
順番に1枚ずつ取って捨ててを繰り返し、牌を入れ替えたりして、
すべての牌が配り終わるまでに、14枚で決まった形を揃えるゲームだ。
基本は4人対戦で、一番早く完成させた人は他のプレイヤーから点数を奪える。
何度か繰り返し、最終的に一番点数を持っていた人の勝ち。
 
基本はそんなところで、もう少し深い話をすると
麻雀はいくら上手になっても必ずランダム要素が絡むゲームである。
運が悪い時は全然揃わないし、逆に運さえ良ければ、初心者でも勝てる時がある。
 
しかし、プロと初心者の打ち方では決定的に違うポイントが存在する。
それは振り込み(放銃)と、それに伴う攻防である。(用語は後ほど説明する)
 
麻雀は先に言った通り、点数を取り合うゲームだ。
 
完成形(手、または役と呼ばれる)を作ったとき、
最後の牌を自力で引いた場合は「ツモ」
他プレイヤーの捨てた牌を拾って完成させた得た場合は「ロン」
と言う上がり方になり、それぞれ点数の計算方法が変わる。
 
ツモは、上がった人がそれ以外のプレイヤーから分散して点数をもらう。
ロンは、当たり牌を捨ててしまったプレイヤー1人から点数を満額もらう。
 
麻雀でプレイする上でポイントになるのはこの「ロン」である。
「他人の当たり牌を捨ててしまう(ロンされてしまう)」行為を放銃と呼ぶのだが、
麻雀の勝敗を決めるのは「いかに放銃をしないか」という部分がかなり大きい。
 
「今回は引きが悪いから、とても完成形までは持っていけそうにない」と思った瞬間に「降りる」つまり、その回は手札の完成を諦めて、他の人へ放銃しないように(ロンされないように)当たらなそうな牌を捨てるというテクニックがとても重要なのである。
 
麻雀のプロは「勝てる時」と「降りる時」を鋭く見極め、
それに応じた戦いが出来るように日々訓練している。
そうでないと、とてもプロの勝率を保っていられないのだ。
 

他プレイヤーは麻雀の「配牌」

 
ようやく話が戻せる。
麻雀におけるランダムな要素が「配牌(配られる手札)」であるのに対し
野良マッチにおけるランダム要素とは
「自分以外のプレイヤーの、練度のばらつき」である。
 
つまり麻雀のプロが「毎回上がれるわけではないので、配牌が悪い時は諦めよう」
と考えているのと同じように、我々が野良マッチをする際は
「毎回勝てるわけがないので(味方を見てダメそうなら)今回は諦めよう」と
スパッと気持ちを切り替えなければいけないのだ。
 
毎回勝てるわけではない、という事をまず理解しなければいけない。
絶対に勝てない試合がある。それも、たぶん分くらいがそう
 
麻雀では点数を守るために降りる選択をするが、
野良マッチでは自分のメンタルを守るために気持ちを切り替える。
 
このチームは無理だな、と思ったら、いつも麻雀でそうしているように
「配牌(配られた手札)が悪かったんだな」と思うだけでいい。
 
配牌の悪さにキレ散らかす麻雀のプロは存在しないし、
たとえアマチュアでも「どうにもならない事」に憤るのは無駄ではないだろうか?
 

その上で、鍛えるべきスキルとは

 
ともかく「自分のどうにか出来る範囲」を越えて嘆かない事。
どうにか出来る範囲だけ、どうにかすれば良い。
それ以外の事は、たまたま運が悪かっただけなのだから
何も考えずに流してしまうのが良い。
 
それでは、ここで我々が麻雀のプロに学ぶ部分はどこであろうか。
 
恐らくそれは「勝てる戦いかどうかを見極める」スキルではないかと思う。
 
「勝てる時に頑張る」のが正解であるから、
頑張りどころを間違えないために、勝てるかどうかを見定める力が必要になる。
 
勝てる戦を捨ててしまっては元も子もないし、
負け戦を中途半端に頑張ってしまっても、メンタルの効率は悪い。
 
「この戦いは果たして”自分次第”なのかどうか?」
ゲーム毎にこう自問し、自分なりにまず答えを出してみる事で
よりストレス無くゲームを楽しめるようになるのではないだろうかと思う。
 
 

まとめ

  • 誰がプレイしても野良マッチは「毎回勝てない」ように出来ている
  • 野良マッチにおける他プレイヤーは麻雀で言うところの「手牌」である
  • 勝てない回は「配られた手札が悪かった」と思って気持ちを切り替える
  • その分、勝てるかどうかの見極めには細心の注意を払うこと
 
 
 

おまけ1:勝率をアップさせる方法

 
さて、ここまで「どうやっても勝てない試合があって、
それはお前のせいじゃない場合もある」と説明してきた。
 
しかし結局のところ、勝率には
「自分のプレイ」そのものがしっかり響くようになっている。
これは完全確率のギャンブルでも無い限り、全てのゲームがそうなのだ。
 
なぜかと言うと、誰しも一時的にはランダムな要素に翻弄されるものの
最終的に掴める「チャンスの量」は同じであるため、
あとはそれをいかに掴めるか、という差でしかないのだ。
 
チャンスの量が同じ、というのはどういう事なのか?
 
 
この言葉を理解するためには、
まず前提として説明しておかなければいけないルールがある。それは
 
「いくらランダムな要素が絡んでも、
回数を重ねていけばランダムな部分の確率は収束していくから」である。
 
何を言っているかわからない人のためにもう少し詳しく書く。
 
例として、麻雀の話に戻る。
「良い牌(手札)が来る」「悪い牌が来る」確率というのは、
毎回のゲームでは必ず偏りが生じる。
「今回は運が良くてすぐに揃った」「今回は運が悪くて全然揃わなかった」
というような話である。
 
しかしこれが、ゲームの回数をどんどん重ねていくにつれ、
誰しもが同じ条件、確率に収束していくのだ。
 
例えば4~5回のゲームをこなした程度では、
まだまだ、良いも悪いもどちらかに偏る可能性がある。
しかしこれを100回、200回と繰り返すことで
「手札の良かった確率」「悪かった確率」は全員、同等の確率に落ち着いていく。
 
これはスピリチュアルな話ではなく、それが確率というものなのだ。
6面ダイスを何度も振り続けるとダイスの各面が出る確率は16.6666666...%
に向かって収束していく、という話はご存知だろう。
 
これをゲームに置き換えると、
4~5回試合をして「味方が弱い(または強い)事が多い」と思っても、
100回、200回と繰り返すことでそれは「誰もが同じ条件」に収束していく。
 
チャンスの量が同じ、というのはそういった理由だ。
 
 
よく、チーム戦のゲームの上達法を啓蒙するのに
「味方のせいにしているうちは勝てない」という言葉が使われるが、
これは、半分間違っていて、半分合っている。
 
つまり、勝てない試合の全部が全部「お前のせいじゃない」場合もあるし、
もちろん「お前のせいの場合」もあるという事だ。
 
敗因を正しく分析出来るように努力すること。
そして自分が出来る範囲の事はしっかりと行うこと。
 
自分と他人、どちらを贔屓しても上達からは遠のいてしまう。
 
なので私は、ここに新しい啓蒙を掲げようと思う。
 
 
 
「自分の手の届く範囲だけをしっかりやる事。
 
その上で、勝った負けたは運でしか無い。
 
でもね、本当にしっかり出来ているなら、
 
まず勝率5割を切るはずが!!無いよね!?ハム太郎!!!」
 
 
そうなのだ!!!!!まったくそうなのだ!!!!!!
 
 

おまけ2:チーム戦のゲームは上達が難しい

 
毎回のゲームに「ランダム要素」があり一種の偏りが生じるという事実、
これは初心者プレイヤーにとっては上達の大きな壁となる。
 
というのも、自分が一貫して同じプレイをしていても、
マッチしたプレイヤーによっては勝ったり負けたり、違った結果が出てしまうためだ。
 
果たして今回負けたのは自分のせいなのか? はたまた味方のせいなのか。
初心者だとなおさら判断基準が定まらないし、まずわからない。
 
チーム戦のゲームを本当に効率よく上達したいのであれば、
ひとりで遊んでいるのはかなり非効率という事になる。
 
今では幸い、ゲームを問わずDiscordなど
参加しやすいコミュニティが多数存在しているので、
もし上達したいという気持ちがあれば、
一緒にプレイしてくれる先輩プレイヤーを探しに行くのも
手段の一つであると覚えておいて欲しい。
 
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それでは、長くはなりましたが
読んでくれた方が多少なりとも「そうかも」と思って頂けたのであれば
それほど嬉しいことはありません。
 
最後に、この記事に書いてある事では全く歯が立たない
チーム戦ゲームの2大「悪の巨塔」についても触れておきます。
 
マッチメイキングの確率収束理論をいとも簡単に破壊する「スマーフ
そして拭いた便所紙を見せつける特殊性癖持ちによる「暴言」
 
これらへの考え方について良いアイディアがある方は
Twitter ID : @kaoru_san
までご一報頂ければまた、練って記事にしようかと思います。
ご投稿お待ちしております。お疲れさまでした。
 

【Minecraft】7年前くらいのMOJANGアカウントがまだ生きていた話

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正直ビビった。

Minecraftと言えば、Java版のリリースが2011年あたりで

当時はPCゲーム事情に早いOpayaさんの配信で知ったものだった。

 

あの独特なピアノサウンドとシステムに魅入られたものの

当時は海外への送金方法等に不安があったため中々手が出ずにおり、

それでも何かのタイミングでどうにかして購入したらしい。

 

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当時はこんな豪華なランチャはなかったな?

 

ニコニコ界隈で流行るまではほぼマトモにプレイせず。

流行りだしてからも大家のプレイを眺めたり、眼鏡荘で遊んだりしたものの

正直ちゃんと遊んだとは言い難い。

 

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コミュニティ放送は最新の日付で2015年4月。思ったよりやってた?

 

もうおよそ4年くらいは触ってなかったMinecraftだけど

今もまだ遊べるのかな?と公式ページでID/Pass叩いてみた結果

思いのほかあっさりダウンロード出来てしまった。

 

今回なぜ突然こういった試みをしたかと言えば

 

遅ればせながら最近ガッツリ目にVtuberにドハマリしてるため

やるやらないは別にして、DLせざるを得なかったと言える。

 

大昔プレイしていたけど最近めっきりという方、

今もアカウントパスさえ覚えていればまたプレイ出来ますよ。