手術したらタイムリープするハメになった話

 子供のころから病気がちではあったものの、まだ成人して間もない自分にとっての「余命宣告」はそれなりにパンチの利いた冗談だった。医師から両親を通じて伝えられたそれによれば、あと3ヶ月程度なのだという。本人に宣告するかどうか、という判断は親族に委ねられるものらしいのだが、流石は俺の親だ。もしかすると葛藤はあったのかもしれないが、スッキリきっぱりと教えてくれた。あなたもう3ヶ月しか持たないのよ、と。
 
 延命措置というよりは、終末医療のような形になった。3ヶ月後の死は想像すると恐ろしくなってしまいそうなので、自分の中での死の解像度が上がるまえに「処置」をしてもらうことになった。曰く、時間の感覚を極限まで鈍らせることで恐怖やストレスから開放されるというものだ。驚くほど倫理的ではない気がする。説明をしてくれたのは医者で、両親は、すべてお前の好きなようにしてくれ、してやれることは全部してやる、というような事を言った。俺はあっさり承諾して手術は3日後に決まり、なるべく何も考えないようにしてその日を待った。
 
 当日、起床後に朝食は抜きにして、手術を行うため離れの病棟へと向かった。術前、意識を失う前に最後に聴いたのは、折りたたみ式の寝台の足が鳴らすガチャガチャとした音だ。
 
 
 
 
 意識を取り戻すと自分はベッドに横たわり、そばには両親と、いつもの医師がいる。
 
「あなた、あと4年しか持たないのよ」
 
 
 急に何を言っているんだという気持ちをそのままに、ひとしきり説明を求めたことは想像に難くないと思うが、医師にしても、俺の様子を見て訝しげな顔をしたのちに、誰かに電話で連絡をとり、なにやら相談しているようだ。余命が3ヶ月だと言い放ったときですらそれほど極端に感情を見せなかった両親が、哀れみの表情でこちらを見つめている。
 
 その日の夜は悶々として過ごし、翌日になりようやく、つまり自分は、投薬やさまざまな処置により記憶が混乱しているのだな、というように認識出来るようになった。しかしそれにしても、余命のことは記憶違いだったとしても、宣告を受けた翌日にまた宣告を受けるのは妙な話だ。それについて両親に聞くと、
 
「あなたにそれを伝えたのは昨日が初めてよ」
 
 と悲しそうな表情で答える。なんのこっちゃと思い部屋を出て確認してみるが、休憩所のスペースにある新聞も、テレビも、自分がいま「宣告を受けた日の翌日」に存在することを示しているのであった。
 
 自分が時間を飛び越えて、なんども同じ日を繰り返しているのではないか?という馬鹿馬鹿しい妄想が現実味を帯びてきたのは、そのまた翌々日、退院日の診察でだった。かんたんな触診を行うためにベッドに横になったところで気を失い、次に意識を取り戻したときに見たのは部屋の天井と、医師と、そして両親の顔。
 
「あなた、あと5年だそうよ」
 
 短いけど……何がしたい? と続けざまに聞かれたが、それについては答えることは出来ない。そのかわり、今日は何曜日、何日ですか?と質問をするに留まった。今、この文章を読んでいる方なら、この気持ちはわかるだろう。医師はじっとこちらを見つめてから、日付と曜日を答えた。それは自分が初めて宣告を受けた日であり、おそらくなのだが、何度目かの「この日」だ。
 
 宣告される「年数」は、どうやら時間が遡るたびに伸びている。正直、はじめの3ヶ月という宣告からすれば5年はかなり上等に感じる。それにおそらく両親は、これから5年の間は好きなことをさせてくれるだろう。5年もあると考えれば、やりたいことはそれなりにある。しかしまた時間が遡ってしまえば台無しだ。宣告から退院までの同じ時間を、同じように繰り返すことになるかもしれない。
 
 しかしそんな心配は、すぐ払拭されることになった。曰く、余命5年と宣告されたとはいえ、今できる処置はほとんどないので、即日退院なのだそうだ。今後は定期検診のみになり、ゆくゆくは本人、つまり俺の意向で「最終的にどうするかどうするか」を決める。
 
 なんだか久しぶりな気がする日差しを浴びて、あと5年、さっそく始められることは始めてしまおう、と思った。親の運転する車で自宅へ戻り、少しリビングで休んだあとに自室へ戻ってノートとペンを取り出す。人生の終わりが決まっているのなら、スケジュールも決めやすいのか。なんてことを思いながら「これからやりたい事」を書き込んで、それぞれにかかるであろう「時間」も併記していく。5年、ピッタリとはいかないだろうから、4年半を目処として仕上げる。5年もの人生計画が、1時間かそこらで完成してしまった。それでもそこそこ、満足のいく仕上がりだ。
 
 それからちょっと休もう、と大きく伸びをしてベッドに横になったまま、俺は息を引き取った。
 
 
 両親は、それからすぐに部屋に入ってきて俺の手を握り、母親はその場に座ってゆっくり時間をかけてから泣いた。父親は俺の書いたノートを読んで、やっぱりこんなことをすべきではなかったかもしれない、と言う。
 
 
 俺の本来の寿命は、宣告段階で一週間ちょうど。それを知っていたのは医師と両親だけで、当人である俺は全く知らなかったわけだが、両親はなるべく苦しまないように逝かせたいと考えたらしい。医師が考えたシナリオによって俺は恐怖と無縁の逝去となったわけだが、本人達がよかれと思ってやったことが、他でもない、まだ生きている本人達には深い爪痕を残している。こちらとしては、感謝しようにも伝える方法がないから、ただ眺めるしかないのだが。