「こうあるべき」という暴力

 「正しさ」の呪い

 
 よく「正しさ」を測ろうとする人間がある。
 わかりやすく言えば「こうするべき、こうあるべき」といった類の概念を振りかざす人間のことだ。
 
 まず初めに断っておくと、これは明確に「呪い」でしかない。しかし、それを行使する側、また、その受け手ですら、その本質に気づかず、すっかりその「正しさという呪い」に捕らわれてしまっている場合がある。
 
 そして私はこの「正しさという呪い」が大嫌いなので、いかにそれが馬鹿らしいものなのかを書き殴って知らしめてやろうと、キーボードを叩いている次第だ。
 
 

身近な「正しさという呪い」

 
 例えば子供を授かった、またはこれから授かる予定の父母が「ちゃんとした母になれるか、父になれるか」といった不安を抱くのも、よくある捕らわれのパターンである。
 要するに、誰が言い始めたかもわからない「パパこうあるべし」「ママこうあるべし」という型に、自分がピッタリはまるのだろうか?といった漠然とした不安を抱えているのだ。
 
 こうした「こうあるべき」の呪いは、探し出せばいくらでも見つかる。お兄ちゃんなんだから、お姉ちゃんなんだから、男なんだから、女なんだから、若いんだから、年寄りなんだから、学生なんだから......
 こうした「分類」や「レッテル」は、自然に発生するものではない。何らかの目的を持って、どこかの誰かが作り上げるものだ。これに例外は、1つも無い。
 
 

分類は「手段」であり本質ではない

 
 そもそもの話、人間は生まれた瞬間から別個体であり、それぞれ千差万別どころではない違いを持ち、その違いは全くのグラデーションで、本来、簡易にでも分類することは出来ないものだ。それでも現状、人種、国籍、性格、思想なんかでざっくり括られているというのは、人間側が「何らかの目的を達成するために」「勝手に」「線引きしているだけ」というのが実情である。
 
 そう、分類とは「目的を達成するために」行われるものであって、そのものの「本質」とは一切の関わりを持たない。ただの手段であり、手段の背後には人間の意図がある。人間が、自らの目的のための手段として、勝手に色々なものに線引きし、括って、あわよくばコントロールしようとしている。これが分類、レッテル貼りの正体だ。
 
 

分類する側は、イレギュラーを許さない

 
 分類を行う側、レッテルを貼る側というのは、前述した通り「何らかの目的」を持っている。そして目的を達成するにあたり、分類した物のイレギュラーに対しては、とても厳しくあたる。
 
 例えば、子を持つ父母の例を思い返してほしい。
 
・「パパ、ママ、こうあるべき」というのは、意図的に、誰かによって作られた「分類」である
・分類した側には、何らかの達成したい目的がある。それは多種多様である
・分類した側からすると「あるべき姿の父親像、母親像」から外れた存在というのは、目的達成の障害となるイレギュラーである
・分類した側は、分類から外れた存在を徹底的に叩いて矯正しようとする。→「ママなんだからしっかりしなさいと暴言を吐く」etc...
 
 この例における「分類した側」と、その目的については、多種多様であり明確なものを提示することが出来ない。先ほども言った通り、人間の違いはそれぞれグラデーションであって、これは「分類した側」も同様であり、各々違った目的で「分類」を行っている。しかし、目的は違えど一貫している部分がある。
 

立派な目的も感情由来でしかない

 
 それは、その人間にとって心地よい(好きな)状況にしたい、という本音であり、本質だ。極めて感情的なものであって、高尚なものでは無い。例えば空から、曇り空を割って、光と共に降って賜るようなものでもない。
 
 経済的効果をあげる、治安を維持する、幸福の総量を増やす、などよく語られる「目的」は、たいそう立派に聞こえてしまう。しかし、これらが特筆して素晴らしいのかというわけではない。どこかの誰かが、そう思っただけだ。
 
 経済的効果に全く興味が無いだとか、他人の幸福なんてどうでも良いだとか、そういう考え方が特筆してダメだ、という話にもならない。どこかの誰かが、そう感じただけだ。
 
 

「正しさ」の正体

 
 ここまで読んだ方にはもうお分かりかと思うが、世にはびこる「正しさ」とは、その「正しさ」を啓蒙する者が、何かを成しえようとする際に振り回す「手段」に過ぎない。
 
 つまり「正しさの啓蒙」というのは、その「正しさ」で他人を殴りつけて、自らの心地よい状況をつくりあげる、というためだけの、感情由来の行為である。
 
 今まで怯えていたものが、急に馬鹿らしく見えてこないだろうか? 所詮、誰かが自身のために、勝手に言いだしただけの事なのだ。いくら耳触りの良い立派な話でも、知らねえよ、と思ったのなら、知らねえよで良いのだ。
 
 この考え方がわかると、分類やレッテルが怖くなくなるという一面もある。というのも、分類やレッテルが何故行われるのか、もう貴方はよく分かっているからだ。
 
 しかし「正しさ」に泣かされている人が、別な「正しさ」で対抗してはいけないとも思っている。では、何で対抗すれば良いのだろうか?
 
 

「正しさ」は使いたくない

 
「正しさ」というのは、世の中に強く結びついてしまっている概念だ。人間が他の動物と違うのは、社会性を身に着けた所だという話がある。社会性とは、集団の利益を尊重するということであり、そのためには「分類」し「正しさ」を振り回して「イレギュラーを爪弾きにして」コントロールるする必要があった。しかしその仕組みは、グラデーションにおける一部の中間色な人間にとっては、とてつもなく居心地の悪い事であっただろう。
 
 今、こうしてキーボードを叩いて文章を書いていられるというのは、その社会性を帯びた世界のおかげではあるので、それを全く否定してしまうという事は、私には出来ない。しかし、少なくとも自分が発する物に関しては「正しさ」をなるべく使いたくない、というのが正直な所だ。
 

「正しさ」の代わりに使えるもの

 
 何かについての意見を表明したい時、いつものの調子だと、うっかり「○○が正しい」「○○は間違っている」と言ってしまいがちだ。しかしそれは、自分が、自分の意図に反したものを攻撃し、あわよくばコントロールし、それが存在しない世界を作り上げたい、というエゴが由来である。ということに、まずは気づけるようになってほしい。
 
「正しさ」を振り回す裏には、常に何かしらのエゴ、意図が存在していて、それは自分だって、もちろん例外じゃないのだ。
 
 だからこれからは、自分でしっかり納得の出来る目的が無い限りは「正しさ」は使わずに「○○が好き」「○○が嫌い」と言うようにしてほしい。それが本来の、人間の限界だと思うからだ。
 
 これらを実際にやってみると、なにか違和感を覚えるはずだ。なんだか、自分の意見がとても小さく感じられるような違和感だ。○○は正しい!と言うのに比べて、○○が好き、というのは、とても弱く感じるだろう。しかしそれが本来、いち個人が抱えられる権威性の限界だと思う。
 
 これまでは「正しさ」を盾に、めいっぱい他人を殴りつけてきた。自分が正しいのだから、お前の意見は尊重しない、ということを、平気な顔でやってきた。それを変えなければいけないと思う。
 
 

「好き」か「嫌い」かは無限大

 
 「正しさ」とは普遍的なものだ。他人をコントロールするための手段なのだから、ブレがあってはいけない。
 しかし「好き」「嫌い」というのは、ひとりひとり違う、グラデーションだ。同じものを見たって「好き」か「嫌い」かは分かれる。どのくらい「好き」か「嫌い」かの程度だって全然違う。そして、どう感じたとしても、それは決して間違いではない。好きや嫌いという感情は、他人をコントロールするためのものではなく、自分の中から発せられるものであって、そして、それは何よりも尊ぶべきものだと思う。
 

「嫌い」も使って良いの?

 
 何かの漫画の一コマの「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」というセリフが取り沙汰されていた時期がある。これを見た当時は心の底から気づきを得たし、共感すらした。でも、今の私は「嫌い」な事だって語って良いと思っている。
 
 というのも、この「何が嫌いより、何が好きかで~」の標語にしても、これだって我々が忌み嫌うべき「正しさ」という、他人を殴るための棒なのだ。どこかの誰かが、他人の「嫌い」を見たくなくて、見たくないものを見ないために、ありがたがって触れ回った一コマに過ぎない。だから「嫌い」を発信したい人は、臆せず自由に発信すれば良いと思うし、「嫌い」を発信したくないのであれば、しなければ良い。それは、誰かに縛られる選択ではないし、他人を縛るなんて横暴は、なおさらだ。
 
 

まとめ

  1. 「正しさ」は他人を殴るための棒
  2. 「正しさ」を盾にすると人間は限界を超えた権威性を持つ
  3. 「好き」か「嫌い」で語る事は、誰にも縛られないもの